2017年12月11日月曜日

不良性感度


不良性感度という言葉がある。もともとは映画俳優向けの言葉だったようで、売れっ子になるために不可欠な要素だとか。

確かに強烈な印象を残したスターは不良性感度が強かった。石原裕次郎、勝新太郎、松田優作など例をあげればキリがない。


不良性感度などと言うと大げさだが、要するに「不良っぽさ」のことだろう。昔から人を引きつける不思議な力がある。

不良っぽさは、純粋な不良とは違う。「ぽさ」がポイントだ。あくまで社会秩序のワクの中で少しばかりもがいてみるレベルだ。

より突っ込んで定義付けすると、ただの悪者然とした感じとは違う。単純にコワモテを意味するわけでもない。怠け者やダメ男でもない。

見た目のカッコ良さもさほど重要ではない。「男はつらいよ」の寅さんや「釣りバカ日誌」のハマちゃんは「不良っぽさ」の究極だ。ニヒルだったり寡黙である必要はない。

トッポさや、反骨心、少しばかり自我が強かったり、背伸びしたい意識が強いタイプなんかも「不良っぽさ」につながる要因だろう。

見た目で不良っぽさを演出するのは簡単だが、あえて虚勢を張った格好をしなくても、根っ子に不良性があれば、自然と外見にも雰囲気が滲み出るものだと思う。

オジサン向けのファッション雑誌が、ちょっとハズした服装をチョイワルなどと称して煽っているが、あれを教科書のように信じ込むようなオジサンは、その時点で不良性ゼロだと思う。

不良に不可欠?な健全なアマノジャク精神があれば、ああいう教科書的なものを否定することから始める。

もちろん、善し悪しの話ではない。真面目にチョイワルを目指したい人を悪く言う気はない。それを否定するアマノジャク精神を闇雲に賞賛する話でもない。

あくまで「不良っぽさ」に当てはまるかどうかの話である。抽象的な表現になるが、無頼な感じ、居直った感じこそが不良っぽさの根っ子だと思う。

私自身、50歳を超えた今になって、真面目さの大事さを思い知らされているが、やはりワンパク男子のなれの果てだから、「不良っぽさ」にすり寄りたい気持ちは消えていない。

見た目に無頓着で地味に見える人でも、不良っぽさが匂ってくる何となくワクワクする。大人になるにつれ、そんな「滲み出る不良っぽさ」が格好良く思えてきた。

ことさら虚勢を張るのも程度問題だろう。若い頃ならいざ知らず、大人になったら「滲み出る」という点に意識を払いたいものだ。

私の場合、胸ポケットにチーフを挿し、ピカピカの靴を履いて一生懸命イキがっているから、さりげなく「滲み出ている人」に出会うと自分が小っ恥ずかしくなる。

もっとさりげない感じで、ほんの少しヤンチャっぽさが漂うぐらいの路線を目指したいものだ。

先日、松本人志が司会を務める「クレイジージャーニー」という番組で遺体科学の第一人者である東大の遠藤秀紀教授が取り上げられていた。



あらゆる動物の遺体解剖を通して生物の進化の神秘にメスを入れる個性的な学者さんである。

遠藤教授は実は私と同級生だ。小、中、高と同じ学校に通ったが、頭の構造がまるで違うので親しく交わったのは小学生の頃ぐらいだ。

番組の中で印象的だったのは、遠藤教授が研究室でカップ麺ばかり食べていた部分だ。

「身体に良いものだけを食べる人って馬鹿みたい」。おまけに、わざわざ昼飯を食べに外に出かけることが面倒だと語っていた。なかなか突き抜けている。

まさに無頼であり居直りである。驚くことに彼は携帯電話も持っていないそうだ。「まったく必要なし」と語る彼のそうしたブレない姿勢には、ある種の「不良性感度」が垣間見えた。

大人にとっての「不良っぽさ」って、結局は「突き抜け感」と「流されない自我」が欠かせないのだろう。

見た目ばかり気にしているような自分の薄っぺらい感じを反省する今日この頃である。

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