2017年9月6日水曜日

いかにとやせん


夏の終わりの寂しい感じが好きだ。グッと来る。他の季節にはない独特の寂寥感がある。

夕陽の色合いも切なげで、遠くにかすかにヒグラシの鳴き声が残る中、鈴虫やコオロギの鳴き声が日に日に強くなっていく。

風の匂いも変わる。うまく表現できないが胸がキュンとする。悲しいことなどないのに哀愁気分に浸りたくなる。

季節の変化は子供の頃から体験しているが、年齢とともに節目節目の移り変わりに敏感になる。郷愁にかられる気持ちが強くなっているのだろう。

「いかにとやせん」。忠臣蔵の浅野内匠頭の辞世の句で使われている言葉だ。「どうしたらいいのだろう」「どのように伝えればいいのだろう」といった意味合いの言葉だ。

夏の終わりにふと感じるノスタルジックな気分はまさに「いかにとやせん」である。週末の夕暮れ、ボンヤリ散歩しながらそんなことばかり考えている。

不思議なもので、こういう感覚は本格的な秋になれば忘れてしまう。あくまで夏の終わりのほんのひとときの感傷だ。だからこそ妙に切ない気分になる。

薄れていく感じ。追いかけたくても届かない感じに無性に気持ちがザワつく。わけもなく亡くなった祖父母や友、ついでに昔好きだった人なんかを思い出したりする。

そんなときに浮かぶのはなぜか唱歌が多い。「赤い靴」「夕焼け小焼け」「椰子の実」あたりが頭の中でボンヤリと響いている。

ありとあらゆる音楽の中でも、日本の唱歌が持つ郷愁を誘う独特なメロディーラインは素晴らしいと思う。というか、日本人の感性だからこそ感じる素晴らしさだろう。

アフリカの人が聴いても何も感じないのかもしれない。まあ、あちらにはあちらの郷愁メロディーがあるはずだ。

ホロ酔い気分で帰宅して下手なギターをジャジャガ弾いても、一息ついて風呂に入れば、出てくる鼻歌は「椰子の実」だったりする。

♪名も知ら~ぬ、遠き島より~♪である。ガサツな毎日を過ごしている私でも、この時期はロマンチストみたいな顔をして生きている。

日本的DNAが身体の奥底の方に染みついているのだろう。風鈴の物悲しい響きとコオロギの鳴き声がセットで聞こえてくると、まさに辛抱たまらん状態だ。

ちょっと頑張れば涙だって出そうなぐらいだ。まあ別に悲しくないので泣かないが、つくづくこの先の人生では、この季節に不幸なことが起きないことを祈りたい。

ここ数年、夏の終わりに敏感になったのは、自分自身の人生の季節が秋だからだろう。過ぎ去った人生の春や夏へのノスタルジーがそうさせるのかもしれない。

なんだかガラにもなくおセンチな話を書いてしまった。

まあ四の五の言ってもしょせん私は俗物である。その証拠に昨日今日あたり私の頭の中を支配しているのはサンマや土瓶蒸しのことばかりである。

そんなものだ。

2 件のコメント:

道草人生 さんのコメント...

内匠頭の辞世、風さそう、ですね。成績は良くなかったですけど古典の文章のリズムは日本人たる自分の心情に理屈を越えてぴったりするものが多くて暗記をしたわけではないのに頭に残るフレーズが多いですね。

そしてまた夏の終わりは確かに回向に限らず自分史の回想に結ぶのがたの季節よりも多いのも、秋の記憶が食欲に結びつくのも(笑)同じです!

富豪記者 さんのコメント...

道草人生さま

そうなんです。秋はノスタルジーとハングリーがせめぎ合うからメンドーです!