2017年4月5日水曜日

不倫と社会 モテない人


かりそめの恋、道ならぬ恋。こんな世界を描いた映画や小説はいつの時代も人気だ。歌の世界やテレビドラマもこんな路線が定番だ。

平たく言っちゃえば不倫を描いているものが多いのだが、そんな世界観に感動しながら、有名人の不倫ネタにはバッシングが続く。これが窮屈な今の社会の姿だ。

俳優の渡辺謙さんの不倫ネタがその他のタレントよりバッシングが少ないことが話題になった。大物は叩かれないだの、日頃の好感度が違うなど、あれやこれや物議を醸していたが、世の中が不倫叩きの愚かさにようやく気づいたのかもしれない。

しょせん人様の家庭の話である。鬼の首を取ったかのように騒ぐ話ではない。バレちゃった人もテヘヘと頭をかいて嫁さんに謝ればいい話。

浮気に毛が生えたぐらいの行為で天地がひっくり返ったほど騒ぐのはバカげている。そんなに世の中の人々は聖人君子なのだろうか。

ここ10年、いや20年ぐらい前からだろうか、日常の広範囲にヘンテコな息苦しさが広まってきた。

アレもダメ、コレもダメみたいな基準というか闇雲な規制、統制が渦巻いている。大らかさや大人の了解事みたいな概念をすべて悪いことだと決めつけるおかしな風潮が支配的だ。

自分の頭でモノを考えない人が多いから、こと細かいくだらないことまで誰かの指図を鵜呑みにする。その結果、チンマリとした枠の中で汲々と暮らしながら枠を外れた人を必死で非難する。

ちょっとエラそうな書きかたになってしまったが、結局は凄く狭い価値観の中でその価値観を絶対だと思い込み、少しの脱線すら許さないという窮屈で意地悪な社会になっている。

大げさに言えば、これが「戦後民主主義」という表現にカモフラージュされた「日本型社会主義」のなれの果てなのかとも思う。

わが国はとかく横並びを是とする集団的社会である。欧米とは異なり、肌の色も髪の色も同じ人々が集まっているだけでなく、やっつけ的に押しつけられた民主主義を生ぬるい平等意識だと履き違えてきた。

その結果、横並びこそ美徳という考えが主流になり、列から外れた人を嫌悪する流れになるわけだ。出る杭は打たれるという諺の通りである。

おまけに、かつての“一億総中流”という収まりの良い生活スタイルが時代の変化と共に崩壊し、現在は格差社会である。

本来、資本主義社会であれば格差が生まれて当然なのだが、官僚制社会主義とも言われるわが国では、巧み?な行政運営によって格差を生まないような政策が徹底されてきた。ところが、そうした政策が結局は財政を逼迫させ、結局は本格的な格差社会につながった。

格差に慣れ親しんだ社会であれば「達観」とか「あきらめ」という形の一種の大らかさもあるのだろうが、そこまで至っていない場合、ネタミばかりが広がる。だからヘンテコな監視意識につながる。

なんだかウザったい書き方になってしまった。稚拙な評論みたいでスイマセン。いつも頭の中はエロいことしか考えていないのに何をカッコつけて書いているんだろう…。

要はなんだかんだ言って、横並びを良しとする世間様は、その列から少し脱線しただけでスグに妬む。ネタミ社会だ。単なる妬みや嫉妬だとカッチョ悪いから正義感のフリしてバッシングに励む。それが現実だろう。

ちょっと乱暴だが、近頃の不倫バッシングを突き詰めれば単なるモテない人のネタミだろう。

そんなことを書くと全日本モテない人連合?とかから激しく糾弾されそうだが、他人の不倫ネタにブツクサ言っている人はモテなさそうな人ばかりだと思う。

そもそも不倫の定義がよく分からない。結婚している人が、嫁さんやダンナ以外と関係を持つことだとしたら、風俗でハッスルすることも不倫である。

こっそり風俗に行ってムホムホしているモテないオジサンや道ならぬ恋の歌をカラオケで熱唱しているオバサンなんかが不倫バッシングの中心のような気がする。

とか言いながら私自身、最近ちっともモテる機会がないから、ネタミ陣営のほうに参加しないように気をつけようと思う。

このブログはたいてい勢いで一気に書くのだが、今日は雑事の合間に途切れ途切れで書いたから、まるでまとまりの無い話に終始してしまった。反省。

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