2017年12月13日水曜日

鳥取でカニを食らう

冬だからカニを食べに出かけてきた。目的地は鳥取県米子にある皆生温泉である。皆生と書いて「かいけ」と読む。

8年前にも訪れた場所だ。風光明媚な海沿いにいくつもの宿が建ち並び、塩分濃度の強い保温性の高いお湯が楽しめる。

至近距離には境港があり、冬の時期は名物・松葉ガニを堪能しながら温泉でポカポカできる。

冬の日本海はズワイガニの季節である。越前ガニ、間人ガニ、橋立ガニなど、エリアごとにネーミングされているが、山陰エリアでは松葉ガニだ。

細かい定義は知らないが、大ざっぱに言えば、こっちのエリアで特定の時期だけ水揚げされ、活ガニとして流通するまっとうなヤツのことを指す。

冬のズワイといえば、北陸のイメージが強いが、その分、上モノを食べようと思うとベラボーに高い。カニ一匹の値段で銀座のクラブで飲めちゃうレベルである。

ちなみにカニの数え方は、生きていれば「1匹、2匹」、そうでなければ「1杯、2杯」だそうだ。

15年ぐらい前に、突如カニ研究に精を出し始めた私も北陸に何度かカニ旅行に行った。美味しかったことより高かった印象のほうが強い。

その後、同じズワイでも山陰エリアのほうが値頃感があると聞いたせいで、鳥取に初めて行ったのが8年前である。

カニ攻めが目的だったが、皆生温泉の泉質が良かったので、今回も迷わず皆生の宿を選ぶ。

羽田から米子空港まで1時間程度。相変わらず貯まったマイルを使ってタダ飛び。空港からは境港がすぐそばで、皆生温泉も遠くない。

「山陰地方に出かける」と言うと、“はるばる感”があるが、実際には気軽に出かけられる場所である。


宿に入る前に、境港の「水木しげるロード」に寄り道。このエリアの定番だ。一種異様なまでの「鬼太郎推し」が境港の特徴である。通り沿いは妖怪のブロンズ像だらけ。

水木しげる記念館で目玉おやじの秘密を知る。ちょっと感動。

そんなことはどうでもいい。目的はカニである。

「菊乃家」という旅館を利用した。選んだ基準は、まっとうな松葉ガニをふんだんに楽しませてくれる料理プランがあるかどうかという一点である。

この宿には、活の松葉ガニを一人2匹以上使ったフルコースがあったのでムホムホしながら予約した。

大浴場の露天風呂が小さめだったのがやや残念だったが、部屋も綺麗で眺めも良く、全体的に接客も丁寧で快適だった。




刺身に茹でガニ、カニすき鍋である。茹でガニはさほど大きくなかったが、身入りがびっしりで食べ応え抜群だった。

なかでも最高だったのが、カニ味噌の甲羅焼き。酒のアテとして満点である。画像は撮り忘れたが、甲羅に盛られた生のカニ味噌をその場で熱して食べる。

そのままでもウマいが、刺身を絡めて良し、茹でガニの身にトッピングして良し、これぞ活松葉ガニの醍醐味という感じだった。


カニすきの後の雑炊も当たり前のように絶品で「しばらくカニは結構です」と言えるほど堪能できた。

カニはウマいだけでなく、カロリーも少ないのがエラい。無心にほじくっていると、ろくろを回しているような無心の境地に達するし、ほじくるので忙しいから酒をアホみたいに飲み過ぎずに済む。いいことづくめである。

甲殻類アレルギーじゃないことを神と親に感謝しないといけない。

ちなみに、ここまでズワイのことを誉めまくっておいて何だが、私は毛ガニのほうが好きだ。

わざわざ鳥取まで行って大枚はたいてカニざんまいしてきたのに、それが結論とは我ながらアマノジャクだと思う。

2017年12月11日月曜日

不良性感度


不良性感度という言葉がある。もともとは映画俳優向けの言葉だったようで、売れっ子になるために不可欠な要素だとか。

確かに強烈な印象を残したスターは不良性感度が強かった。石原裕次郎、勝新太郎、松田優作など例をあげればキリがない。


不良性感度などと言うと大げさだが、要するに「不良っぽさ」のことだろう。昔から人を引きつける不思議な力がある。

不良っぽさは、純粋な不良とは違う。「ぽさ」がポイントだ。あくまで社会秩序のワクの中で少しばかりもがいてみるレベルだ。

より突っ込んで定義付けすると、ただの悪者然とした感じとは違う。単純にコワモテを意味するわけでもない。怠け者やダメ男でもない。

見た目のカッコ良さもさほど重要ではない。「男はつらいよ」の寅さんや「釣りバカ日誌」のハマちゃんは「不良っぽさ」の究極だ。ニヒルだったり寡黙である必要はない。

トッポさや、反骨心、少しばかり自我が強かったり、背伸びしたい意識が強いタイプなんかも「不良っぽさ」につながる要因だろう。

見た目で不良っぽさを演出するのは簡単だが、あえて虚勢を張った格好をしなくても、根っ子に不良性があれば、自然と外見にも雰囲気が滲み出るものだと思う。

オジサン向けのファッション雑誌が、ちょっとハズした服装をチョイワルなどと称して煽っているが、あれを教科書のように信じ込むようなオジサンは、その時点で不良性ゼロだと思う。

不良に不可欠?な健全なアマノジャク精神があれば、ああいう教科書的なものを否定することから始める。

もちろん、善し悪しの話ではない。真面目にチョイワルを目指したい人を悪く言う気はない。それを否定するアマノジャク精神を闇雲に賞賛する話でもない。

あくまで「不良っぽさ」に当てはまるかどうかの話である。抽象的な表現になるが、無頼な感じ、居直った感じこそが不良っぽさの根っ子だと思う。

私自身、50歳を超えた今になって、真面目さの大事さを思い知らされているが、やはりワンパク男子のなれの果てだから、「不良っぽさ」にすり寄りたい気持ちは消えていない。

見た目に無頓着で地味に見える人でも、不良っぽさが匂ってくる何となくワクワクする。大人になるにつれ、そんな「滲み出る不良っぽさ」が格好良く思えてきた。

ことさら虚勢を張るのも程度問題だろう。若い頃ならいざ知らず、大人になったら「滲み出る」という点に意識を払いたいものだ。

私の場合、胸ポケットにチーフを挿し、ピカピカの靴を履いて一生懸命イキがっているから、さりげなく「滲み出ている人」に出会うと自分が小っ恥ずかしくなる。

もっとさりげない感じで、ほんの少しヤンチャっぽさが漂うぐらいの路線を目指したいものだ。

先日、松本人志が司会を務める「クレイジージャーニー」という番組で遺体科学の第一人者である東大の遠藤秀紀教授が取り上げられていた。


あらゆる動物の遺体解剖を通して生物の進化の神秘にメスを入れる個性的な学者さんである。

遠藤教授は実は私と同級生だ。小、中、高と同じ学校に通ったが、頭の構造がまるで違うので親しく交わったのは小学生の頃ぐらいだ。

番組の中で印象的だったのは、遠藤教授が研究室でカップ麺ばかり食べていた部分だ。

「身体に良いものだけを食べる人って馬鹿みたい」。おまけに、わざわざ昼飯を食べに外に出かけることが面倒だと語っていた。なかなか突き抜けている。

まさに無頼であり居直りである。驚くことに彼は携帯電話も持っていないそうだ。「まったく必要なし」と語る彼のそうしたブレない姿勢には、ある種の「不良性感度」が垣間見えた。

大人にとっての「不良っぽさ」って、結局は「突き抜け感」と「流されない自我」が欠かせないのだろう。

見た目ばかり気にしているような自分の薄っぺらい感じを反省する今日この頃である。

2017年12月8日金曜日

師走の徒然


なんだかんだ12月である。オッタマゲだ。

この時期、嬉しいことと言えば、テレビで「忠臣蔵」関係の番組が増えることと贈答品をいただけることである。

酒類や飲料、お茶、ハム、レトルト食品等々、お歳暮でいろいろ贈っていただいている。有難い限りだ。

このブログであれこれ書きなぐってきたせいか、生鮮食品などのシングルオジサマにとって厄介?な頂き物はほとんどない。

しがない独り者の場合、賞味期限や保存方法に気を使うようなモノをもらうと結構大変だ。

私の場合、対外的には住所を会社所在地にしている。不在がちな自宅にモノが届いても受け取れないからだ。

住民票も会社所在地にしているので、選挙の投票用紙や裁判所からの出頭命令(ウソです)など公的書類もすべて会社に届く。

というわけで、ズワイガニがどーんと届いたりすると置く場所がない。社内の冷蔵庫にそんな余裕はない。そのせいで常温保存できるものを贈ってもらうと、その相手が途端に愛しく思える。

私も誰かに贈り物を届ける際は、相手の好みだけでなく生活スタイルや生活習慣を一応は念頭におくように心がけている。

さて、日頃の散財の甲斐あって、飲み屋さん方面からの贈答品を結構いただく。これはこれで有難いのだが、荷札の送り主欄を見るたびに「プレッシャー」という言葉が頭をよぎる。

荷札そのものが「招待状」に見えるわけだ。いや、「督促状」「脅迫状」かもしれない。

気の弱い私は、贈り物をもらうとその店にすぐにでも行かないと悪い気がして、せっせと出かける。

釣り堀で釣られる魚の気分がちょっと分かるような気がする。


おまけに、年の瀬になると銀座のクラブなんかでは「パーティー」とやらの名目で営業攻勢が激しくなる。

普通、パーティーといえば、何かを記念するなど趣旨なり理由が存在するはずだ。

あの街の場合、ただ「パーティー」である。意味不明だ。要するに「売上強化月間」を翻訳しただけである。

まあ、理屈をこねるのもヤボだから、私も少しは貢献する。有難いことにわがオジサマバンドのライブにも、毎年いくつかの店から応援隊が来てくれるので、そのお礼参りも必要だ。

結局、四の五の言いながらアノ街のネットワークの片隅でちょろちょろと絡め取られている私である。

さてさて、12月だ。以前よりも「喪中ハガキ」が届く数が増えてきた。年齢的に当然かもしれない。

結婚式に呼ばれる機会が激減した代わりにお葬式に行く機会が増えたのも世代的に当然のことなのだろう。

話は変わるが、年賀状をやめることにした。とくに大げさな理由はない。プライベートで年賀状をやり取りしている相手とは、SNSなどで何だかんだと接点があって一応近況も分かっていることも理由の一つだ。

毎年のケジメとして年賀状は大事なのだろうが、儀礼的に無理矢理やり取りしている感じに少し抵抗感があって、以前から何かのタイミングでオシマイにしようと思っていた。


とりあえず、クリスマスカードにかこつけて「やめます宣言ハガキ」を作ってみた。

そんな内容を通知するのは、わざとらしい感じがしてヤボったい。かといって、黙って勝手にやめちゃうのも感じ悪い。どっちにしても気持ち悪いが、最低限の仁義のつもりで投函しようと思う。

でも、75歳ぐらいになってまだまだ元気だったら、生存確認用に勝手に復活させる可能性は大である。

2017年12月6日水曜日

エンゲル係数


家計における食費の支出割合がエンゲル係数である。私の場合、計測不能である。言うならば破綻している。

シングルオジサマの一人暮らしだから、一般的な家庭のそれとは比べられないが、食べ物コストを意識して節約したら、がっつり貯金だって出来そうな気がする。

でも出来ない。


とある週末、カキが無性に食べたくなって買い出しに出かけた。一人で家で鍋をつつくのもシャクなので、特製パスタを作ることにした。

エビとタコも買った。生パスタも買った。ついでにペペロンチーノとアーリオオーリオの出来合いの瓶詰めソースも買った。

出来合いのソースそのまんまだと負けた気がするので、両方をミックスしようと企んだわけだ。

もちろん、瓶詰めソースは全部使ったわけではない。でも、この先二度と使わずに賞味期限が切れる可能性もある。事実上の使い切りみたいなものだ。

言うまでもなく、パスタ、カキ、タコ、エビは使いきりである。

ふと気付けば、たった1回の特製パスタのためのコストとしてはアホ丸出しの金額を投下している。

エンゲル係数測定不能状態である。

こういう時、私の頭の中は自分に都合良くグルグルと回り始める。

美味しいカキのパスタを外食で味わおうとしたら、カキなんて3~4個しか入っていない。ついでに言えば、余計な前菜やメイン料理を注文して無駄に高い白ワインを頼むことになる。

もっと言えば、美味しいイタリアンに行くのなら小綺麗なオネエサンを誘い出す。そうしたら心にもないお世辞を言わねばならないし、結局は変な下心も湧いてくる。

うまくコトが運べば、そのままバーでマティーニなんかをひっかけて、ついでにムホムホ目的でホテルに行っちゃって大出費することになる。

すなわち、肝心のパスタを冷静に味わうことは不可能になり、それどころか、とんでもないコストがあっけらかんと消えてしまう。

それに比べて、一人せっせと贅沢パスタを食べるなら、邪念に惑わされることなく、行儀良くする必要もなくズビズビズズズっとただ無心に食べられて数千円である。

「数千円もかけて作ったパスタ」は、このような御都合主義的妄想気味の解釈によって正当化される。

結果、コスト意識の無さを反省することもなく、貯金がちっとも増えない生活が続く。


こちらは銀座「美らしゃぶ亭」での一コマ。私の知る限り日本で一番ウマい豚しゃぶの店である。

一番ウマいわけだから安い店ではない。「豚肉は牛肉より下」と思い込んでいる人にとっては驚きだろうが、肉類の中で豚肉が一番好きな私にとっては、時々奮発するには許容範囲である。

極上の豚肉が常時5,6種類は用意されているのだが、一番高い肉は確か1人前7千円ぐらいの値段だ。

ただし、旨味、甘味、歯応え、後味に至るまで完璧である。たまの贅沢ならアリだと思う。

この「たまに」という「言い訳」も私のエンゲル係数破壊の要因の一つである。「しょっちゅう食べるわけではない」「たまにしか食べない」という言い訳が財布のヒモを緩めてしまう。

「たまに」ではなく、ちょくちょく食べに行っちゃった時には、また別の言い訳が私の頭の中でフル回転する。

「ダイエット中は夕飯をモヤシだけで済ませた日が1ヶ月に4~5日あったから、合計して案分計算すれば大したことはない」。

いつもいつも都合の良い解釈で無理やり自分を納得させながら、気付けばピーピーしている。

バカである。

2017年12月4日月曜日

朝と夜 二重人格


10月半ばから1ヶ月間ダイエットに励んだ。それなりに成果も出たので、一応終了したのだが、それ以降、胃が小さくなったのか、あまり食べられなくなった。

由々しき事態である。これも加齢の一つだろう。筋肉の衰えと同じように、一度弱くなったら、元に戻るのに時間がかかる。

ダイエット中は、やれトンカツが食いたい、ピラフが食いたい、カレーを飲みたいなどと騒いでいたが、この2週間ばかりダイエットの続きのような食生活だ。

お寿司屋さんではちょろちょろしたツマミで満足して,、肝心の握りに行き着かない。一人だったら頑張って食べようと努力するが、同伴者がいればガンガン食べてもらって、自分は飲んでるだけでお店への義理?を果たす。

先日もクエ鍋を勇んで食べに行ったのに、カツオのタタキで満足しちゃって、鍋のクエは二切れ食べただけだった。醍醐味である雑炊もパスしてしまった。


銀座の「祢保希(ねぼけ)」に時々出かける。クエ鍋が目的だ。私にとって冬になると恋しくなる食べ物だ。

とはいえ、ここは土佐料理の店だから名物のカツオのたたきは外せない。

ニンニクスライスを添える土佐風の食べ方は、私が大学生の頃に本場で体験して以来、カツオのベストな食べ方だと信じて疑わない。

カツオって物凄く美味しい魚だと思うのだが、マグロの陰でいまひとつ脚光を浴びにくい存在だ。

どこもかしこも、それこそ山奥の旅館までバカの一つ覚えのようにマグロの刺身が出てくる。「マグロ絶対主義」のようなマインドコントロールに侵されている人は多い。

そりゃ真っ当なマグロは実に美味しいと思う。でも、どうでもいい味のマグロまで無条件にありがたがる変な風潮は考えものだ。

ウマいカツオを食べるたびに、「とりあえずマグロ」という風潮に警鐘を鳴らしたくなる。

大きなお世話でスイマセン。

食が細くなった話に戻る。


こちらは、わが家での寿司大会の一コマである。客人をもてなすために結構な量の刺身を用意して、備前の大皿と唐津のまな板皿に盛りつけてみた。

特製すし飯も作って酒を飲み飲みする宴だったのだが、私が食べたのはイクラを少々とカツオを二切れ程度。寿司飯は結局ほんの一口で終了してしまった。

さすがに胃の調子でも悪いのかと心配になったのだが、よく考えれば朝飯は平気でドカ食いしている。


ある日の朝、牛丼が無性に食べたくなって松屋の冷凍牛丼を湯煎した。ふるさと納税の返礼品としていっぱい取り寄せてあるので、ついつい2袋である。

一袋あたり135グラムだから2袋で270グラムである。かなりの量だ。店で食べる松屋の牛丼は特盛りでも肉の量は200グラム程度だ。

まさに「スーパー盛り」である。大盛りのドンブリ飯を抱えながらモノの5分程度で完食した。

別な日、これまた朝から鰻丼が食べたくなって湯煎するだけの鰻をドンブリ飯に投入した。


こちらもふるさと納税の返礼品である。鹿児島のナントカ市から送られてきたカット鰻である。悪いクセでこの日も一気に二袋を使ってしまった。上の画像は一袋分だからこの倍である。

二袋だと200グラムである。ファーストフード店の鰻丼の場合、鰻の量は70グラム程度だ。そう考えると朝からバカみたいな食べ方だが、スルスルと完食した。

間違っても胃が小さくなったとは言えない食べっぷりだが、不思議と夜になって酒を飲み始めると別人になってしまう。

昼は何も食べないので、とりあえず空腹感はちゃんとある。なのにビールをグビグビ~と飲んで、突出しを食べると、何だかそこで満足しちゃう。

なんか腑に落ちない。ロクに食べずに酒だけ飲んだら、帰宅した後にお腹が空いてペヤングなんかをウホウホ食べちゃうのが当たり前の時期もあったが、最近はそれもなくなった。

朝のドカ食いの効力が夜遅くまで持つようになってきたのだろうか。

あらゆる面で代謝が落ちてきたことを感じるが、私のヘンテコな食事リズムも代謝が鈍くなったことが原因だろうか。

だとしたらちょっと悲しい。

2017年12月1日金曜日

散歩の楽しみ 寅さん


「ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開花の音がする」

こういうリズムの日本語の面白さを初めて知ったのは小学校か中学校の教科書だった気がする。

五・七・五・七・七の短歌、七・七・七・五の都々逸(どどいつ)は、誰にとっても意識しないうちに身についているリズムだろう。

「信州信濃の新ソバよりも わたしゃお前のそばが良い」

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」

「たった一度の注射が効いて こうも逢いたくなるものか」

例をあげればキリがないが実に小気味よい。

映画・寅さんで頻繁に飛び交う啖呵売の口上もこうした言葉遊びの流れを汲む伝統芸能みたいなものだ。

都々逸の流れにつながった狂歌という分野の大家だった人が大田南畝という江戸時代の人。「蜀山人」という名前でも知られる。


「生きすぎて七十五年 喰ひつぶし かぎりしらぬ天地の恩」

晩年に呼んだ歌だそうだ。なかなか味わい深い。

先日、自宅の近くをぶらぶら散歩していた時に、大田南畝の墓があるという寺を見つけた。画像はそこにあった看板だ。

散歩の楽しみは、こういう発見にこそあるのかもしれない。もともと「蜀山人」という名前ぐらいは知っていたが、詳しくは知らなかった。

散歩の発見ついでにググってみたら、かなり興味深い人物だ。幕府の下級役人を務めながら、粋な文化プロデュ-サーとして活躍、狂歌の第一人者になるも、幕政改革のあおりを受けて、自粛暮らしになり、晩年まで左遷させられまくりの小役人を続けたらしい。

こういう人物を主人公にした人情モノの時代劇をぜひ作ってもらいたいものだ。

私が住んでいる文京区は、江戸の名残りが結構多くて、あてもなく散歩している最中に、歴史に絡む由緒書きの看板をよく目にする。

5代将軍綱吉が将軍になる前に住んでいた屋敷のそばの坂道は「御殿坂」、運河が通っていたそばの坂道は、漁師さんが網を干したから「網干坂」等々、すべて由緒書きのおかげで知った。

「八百屋お七」と「榎本武揚」と「二宮尊徳」のお墓が同じ寺にあったり、宣教師や信者を収容した「切支丹(キリシタン)屋敷」の跡地なども散歩しながら偶然見つけた。

何百年前にその場所で歴史が動いていたのかと思うと何となく感慨深い。

さて、江戸の名残りが感じられたり、古い街並を散策するのが好きな私にとって、一種の聖地が葛飾柴又である。

風情があるのはもちろん、わが師匠・寅さんの街だからただ歩いているだけでもウキウキする。


過去にも何度も散策しているが、最近になってスムーズにアクセスする方法を知ったので、今後は頻繁に出かけることになりそうだ。

地下鉄千代田線が途中からJR常磐線になってあーだのこーだのと知人に解説された。

千代田線の路線図だけ見ていると、サッパリ分からないのだが、とにかく文京区の某エリアからなら乗り換え無しでJRの「金町」に着く。そこから京成線で一駅乗れば柴又である。

週末は帝釈天の門前は大混雑である。それはそれで楽しいのだが、平日の日が暮れそうな夕方にブラブラするのが楽しそうだ。

ウナギ屋さんも普通に美味しい店はあるし、門前町で佃煮や漬け物を試食するのも楽しい。


寅さん記念館もある。何度も通って飽きちゃったのだが、それでも必ず入館する。

最近はヒマがあれば録画がたまっている寅さんを見ている。今まで全48作すべて見ている。3回以上見ている作品もある。

若い頃にはイマイチに感じた作品でも、今になって見返すと違う印象になるから面白い。

眠れぬ夜は「寅さん名言集」なんかもパラパラとめくる。



こんな話を書いているだけで、また柴又散歩、下町散歩がしたくなってきた。ウナギを肴に酒が飲みたくなってきた。

邪念ばかりである。

2017年11月29日水曜日

あの人との時間


「人生後半戦」を実感する機会があった。
などと書くと大げさだが、私にとってはかなり大きなトピックスがあった。

その昔、20代の終わり頃に一緒に暮らしていた女性と20数年ぶりに再会した。和やかに昔話に花を咲かせた。

20年以上まったく音信不通だったから、どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかさえ知らなかった。

今年の夏頃、突然メールをもらった。共通の知人からアドレスを聞いたらしい。そのやり取りのせいで、都内に住み、割と近距離エリアで働いていることを知った。

当たり障りのないメールをやり取りしただけで、会うつもりはなかった。とはいえ、人生後半戦を生きる今、すべての過去にリスペクトが必要だと思っていたこともあって意を決して会うことにした。

正確には23年ぶりだった。23年前である。先週遊んでもらったオネエサンがまだ赤ちゃんだった頃だ。オリンピックが5回ぐらい開催されたほど長い時間だ。

何を話せばいいか、どんな顔をすればいいか等々、会う前は複雑な気持ちだったが、会ってしまえば割とすぐに自然体で過ごせた。

年の功である。

その人と過ごしたのはわずかな期間だ。とはいえ、単なる彼氏彼女ではなく、一応は夫婦だった。積もる話は多い。

結局、待ち合わせしたバーから寿司屋に移動して合計4時間以上もアレコレ話をした。
感慨深かった。

お互い50歳を過ぎ、大過なく過ごせていることは幸せなことだ。共通の知人の中には亡くなった人もいる。

大病もせず、天変地異に遭うこともなく、仕事があって、懐かしい話で盛り上がれることは何でもないことのようで貴重なことだ。

お互いに独身というシュールな現状がビミョーではあるが、真っ当な家庭を築くことだけが幸福とは限らない。

現時点が充実しているかどうかだけが、人生後半戦にとって一番大事なことだ。

10代、20代は人生の黎明期、30代、40代は発展期、50代、60代は人生の成熟期であるとともに斜陽に向かって心の準備を始める時期だと思う。

当たり前のことだが、すべての過去が今につながっていることを改めて感じた。無駄に思えたこともすべて今の自分を形作っている。

寄り道、迷い道、遠回り、無駄なように見えてどれも必要な道のりだったような気がする。

23年ぶりの再会のおかげで、結果的に自分が過ごしてきた30代、40代という年月を振り返るよい機会になった。

酸いも甘いもいろいろあった。ついでに言うなら、最近は薄っぺらい日々を過ごしているようでちょっと情けない。少しは反省しないといけない。

昔話に花を咲かせながら、その人は当時のアレコレについて詫びるような言葉や反省の言葉を口にした。私もそうすべきだったのに、気の利いた言葉の一つも出なかったような気がする。

そこが私のダメなところだ。ちっとも成熟していない。まだまだ底が浅い。そんなことも気付かされる時間だった。

人に歴史あり。私にだってそこそこ歴史はある。歴史は経験の積み重ねだ。学ばないといけないことがいっぱい詰まっている。

2017年11月27日月曜日

おこもり感覚とスケベ心


適度に狭いところが好きだ。極端に狭いと息苦しくなるし、混雑したエレベーターに乗るとパニックになりそうになるが、一人気ままに籠もっている感じの場所は妙に快適だ。

おこもり。こんな言葉も好きだ。女性とシッポリと掘りごたつの個室で一献傾けるのは大好きだし、一人旅の温泉宿でごろごろするのも好きだ。

以前、寝台特急の個室で北海道まで行った時も車窓を眺めながら小さな部屋で包み込まれている感じが快適だった。

バリ島あたりのアジアのリゾート地に行っても、豪華なホテルのスイートも捨てがたいが、一戸建て形式の独立型コテージを選びたくなる。

今の住まいはリビングが18畳ぐらいあるのだが、そっちのスペースよりも、7畳程度の広さの寝室にこもってテレビを見ていることも多い。

一戸建てに暮らしていた家庭人の頃、家族が旅行で不在の時でも、広々としたリビングより自分の寝室兼書斎にこもっていた。

閉塞感の一歩手前ぐらいの狭さに身を置く「おこもり感」が好きなんだろう。

あの心理はいったい何なんだろう。ベルサイユ宮殿のような家に住む大富豪になっても、3畳ぐらいの茶室を作ってそこでボケっとしていそうな気がする。

まあ、そんな暮らしをすることは有り得ないから妄想したところで仕方がない。

かといって、昭和の若者のように4畳半の狭い部屋で同棲が出来るかと言われたら無理だ。誰かと暮らすなら息が詰まるような空間はキツい。

結局は単なるワガママかもしれない。

ウソかホントか知らないが、子どもが狭い空間に入り込んで快適な気分になるのは、胎児の頃の記憶が関係していると聞いたことがある。

一種の本能みたいなものか。覚えているはずもないが、母の胎内って究極の安全地帯であり、究極のおこもり空間だろう。

私のおこもり願望もひょっとしたらそんなDNAが関係しているのかもしれない。

まあ、いつだって女性の中に入りたがるわけだから、あながちマトはずれな話ではない。

決して私はスケベではなく、帰巣本能がちょこっと強いだけだ。たぶんそうだ。オッパイ星人ではなくお尻フェチなのもそれが理由だ!

スケベなのではなく、DNAのせいだ。ゆっくり癒されたくて胎内に突入しようと頑張っているわけだ。きっとそうだ。

ついでにいえば、つい女性の胸元に突撃したくなるのも母乳時代への懐古であって、決してイヤらしい気持ちではない。フラチな考えなんてカケラもない。

相変わらずソッチ方面に話が飛んでしまう自分がイヤだ。

軌道修正。

なんだかんだ言って、おこもり感を求めるのは、小さな男の子が秘密基地を見つけてそこに隠れたがる感覚を引きずっているのかもしれない。

子どもの頃、小説や漫画に出てくる秘密の隠れ家みたいな話にワクワクした。そこがツリーハウスだったら尚更憧れた。

今は一人暮らしなので、住まい自体が秘密基地みたいなものだ。でも不思議なもので日常生活とは別の場所におこもり場所を欲しくなる。

かといって別荘なんてメンドーなだけだし、時々ふらっと出かける一人旅の時間が今の私にとっての秘密基地なのかもしれない。

年末は沖縄に行こうと考え中だ。もちろん!?一人旅だ。レンタカーも借りず、温泉大浴場があるホテルに泊まって、読まずに放置したままの本を手にホゲホゲしてこようと思う。

温泉、読書、散歩。それだけで3日間ほど過ごしてみるつもりだ。

2017年11月24日金曜日

ふるさと納税 ヘンテコだけど


もう今年も最終コーナーである。あと1ヵ月もすれば年末だ。ビックリだ。

というわけで、例の「ふるさと納税」も今年分は締め切りが近づいている。いまいち分からん、メンドーだという理由で未体験の人も多いが、実にもったいない話だ。

次の税制改正では、またぞろ中堅高所得者層への増税が行われる見込みだ。一定収入を超える人の給与所得控除が締め付けられるからホワイトカラーにとっては痛手だ。

ふるさと納税を増税の「意趣返し」ために利用する人が増えることは確かだろう。収入が多ければ、ふるさと納税の「枠」も大きい。税金でイジメられた分を税金で取り戻すような感覚だろうか。

ふるさと納税は、ごく平たく言えば、その人の収入に応じた枠内であれば、わずか2千円の“手数料”だけで寄付した金額がそのまま本来自分が納めるべき税額から差し引かれる仕組み。

寄付する以上、先に出費はするものの、最終的に自分が納める税金と相殺されるわけだから「損」になるのは2千円だけ。

家族の人数によっても変わるが、年収2千万円で50万円、3千万の収入なら100万円程度が「枠の上限」になる。

寄付する自治体の数に制限はない。年収3千万の人が一つの自治体に100万の寄付をしてもいいし、1万円ずつ100カ所に寄付してもOK。

寄付された自治体による返礼品競争が過熱しているが、一般的には寄付額の3~4割相当の価値の品物が送られてくる。

総務省が今年の春に「返礼品の価格は寄付額の3割程度にすべし」と実にお節介かつ地方自治を無視した通知を出したせいで、一時期は各地で返礼品の見直しが行われた。

その後、内閣改造で新しく就任した総務大臣が、お上による規制に否定的な姿勢を見せたことで、自治体の中には高額返礼品を復活させたところもある。

年収3千万の人が寄付額に対して3~4割の価値の返礼品をもらったら30~40万円の経済的利益を得ることになるわけだ。増税された意趣返しとして考える人が増えるのは当然だろう。


私自身、今年はすでに30を超える自治体に寄付を行った。ちょろちょろした金額の寄付ばかりだから総額は大した金額ではない。

ふるさとでもないし、縁もゆかりも思い入れも無い自治体相手だから「ふるさと納税をした」という感覚はない。あくまで返礼品目的の寄付だ。

まあ、こんなヘンテコな話が罷り通ること自体が制度の問題点でもあるのだろう。私の場合も、寄付金受領書を見直してみても、町村名が読めない自治体すらある。

おまけに返礼品として何をもらったのかも覚えていない。いわば、ネット上の物産店で欲しいものを選んで、料金(寄付額)をクレジットカード決済したという感覚だ。

わが家にあるコメ、酒、魚介類、冷凍牛丼からレトルトカレーに至るまで、日本中の自治体から届いた返礼品だ。昨年はスーツのお仕立て券をもらって夏物のスーツを事実上タダで作ったりもした。

税という制度そのもの理念や哲学とは程遠い、実に俗っぽい思惑ばかりで人気を集めているのが実情だ。

税金を扱う媒体に携わる仕事を始めて30年になるが、ジャーナリズム的視点で見れば、つくづくヘンテコな制度だと思う。

まあ、悪法も法なりである。それが自分の利益につながるから安易に活用させてもらっている。

ちなみに、東京都文京区がふるさと納税の在り方に一石を投じようと始めた取り組みを紹介したい。

区内の貧困家庭の子どもに食事を宅配する「こども宅食」という仕組みがそれ。

ふるさと納税で得た寄付は自治体が自由に使い道を決められる点に着目したものだ。

返礼品は無し。あくまでも「こども宅食」に対する協賛者の思いを全額サービスに回すという話だ。どことなくクラウドファンディングにも似ている。

自治体独自の特定の政策に絞って純粋に浄財を募るわけだから、本来の制度の趣旨に叶った取組みとも言える。

ただ、ふるさと納税の事実上の窓口になっているいくつかの民間運営サイトでは、どうしても特色のあるさまざまな返礼品を前面に押し出すため、返礼品なしで浄財を求める自治体の取組みは目立たないのが現状だ。

自治体の独自性とそれをアピールする発信力が無いと、百花繚乱の返礼品競争の中では埋没する。ちょっと残念だ。

蛇足ながら文京区の区長を務める男と私は幼稚園から高校まで一緒の学校に通った仲だ。今も時々顔を合わせる友人だからヨイショしているわけではない。

いや、それもちょっとある。

「こども宅食」は設定されていた寄付目標を早々にクリアして、締め切りまで1ヶ月以上ある中で合計1500人以上の人から目標の2倍ほどの浄財を集めている。

私のようなガメつい人間とは違う真っ当な人々が世の中には結構いるわけだ。

少しは見習おうと思う。

2017年11月22日水曜日

カマキリ先生もやってきた

6年連続での開催となった我がオジサマバンドのライブが無事に終わった。このブログをきっかけにご来場された方々にもこの場を借りて改めて感謝いたします。

何度やっても独特の緊張感は無くならない。数日前から変に緊張して心がザワザワしていた。

ライブ前日の夜は急きょメンバーの一人を強引に誘い出し、ギター持参でカラオケボックス。

練習らしき時間は20分ぐらいで残りの3時間ぐらいはウダウダ飲んで過ごす。おかげで前日のモヤモヤが薄まりグッスリ眠れた。

ライブ当日は、午前中に子どもの学校行事。バタバタしたおかげで気が紛れる。午後から会場入り。打ち合わせ、リハーサルで忙しく緊張する暇なし。

お客様が集まり始める17時頃にようやく一息。開演は18時だ。この1時間が魔の時間である。緊張で地に足が付かない感じ。

楽屋でウイスキーをストレートで飲む。不思議と酔わない。終わってみれば逆にこの時間が面白かったという印象もある。普段の暮らしの中では味わえない変な感覚だ。


今年は二部制のステージ構成で、私のメインは第一部。第二部では最後の2曲だけ合流する段取りだった。

第一部は我が同級生二人と20代前半の私の姪っ子で構成。姪はピアノ、バイオリン、ギター、の三刀流の他にコーラスでもオジサマ達をサポート。若者にとってはブラック労働である。

「スタンドバイミー」のような渋めのアレンジにした「サントワマミー」で開演。例年以上にお客様が暖かかったのが嬉しい。

毎年しゃべりすぎる私のMCも今年は抑え気味にした。でも思った以上にウケも良く、大いに気持ちよく楽しませてもらった。

“カマキリ先生”こと有名俳優のK君も来てくれた。事前にMCでイジりまくることも快く承諾してくれたのでアレコレとネタにさせてもらう。

場の盛り上がりに大いに協力してもらった感じだ。彼は謙虚ないいヤツだから、終演後の打ち上げにも付き合ってくれた。

お客さんからの写真撮影にも笑顔で付き合っていた。立派だ。私としては、仲介役みたいな顔をして撮影1枚に付き100円ぐらいクスねれば良かったと後悔している。

肝心の歌のほうは例年よりは安定した音程でこなせたと思う。喉管理に気を使い、ストレッチもしたせいだろうか。

オリジナル曲も2曲披露した。自分達で作った曲を120~130人もの有料で来てくれた皆様の前で演奏するのは図々しいことだが、とても良い曲だから許してもらおう。自画自賛である!

オリジナルの一つは今年の春に急逝した友人を偲ぶ歌だ。わがバンドメンバー達の旧友だ。

私の詩にメンバーの一人が素敵な曲を付けてくれた。当日はカマキリ先生以外にもヤツの同級生が30人ぐらい来てくれていたので、追悼の思いで心を込めて歌った。

歌いながらちょっと泣きそうになった。正直に言えば少し涙が出た。あそこまで感情を込めて歌を歌った経験は人生で初めてかもしれない。同級生以外のお客様にも泣いている人がいたから、しっかりと想いを表現できたのだろう。

私にとっては「泣き笑い」というその曲が今年のハイライトだった。無事に歌い切れて嬉しかったし、何かを“消化”できたような気分になった。

歌の力って凄いと思う。日本人は古来から言葉に宿っている不思議な力を「言霊(ことだま)」と呼ぶが、歌には言葉以上に特殊な力があるような気がする。

別にスピリチュアルな話をするつもりはないが、歌魂(うただま)とも言うべき不思議な力があるのは間違いないと思う。

それにしても今年の会場の盛り上がりはちょっと普通じゃなかった。初めて来ていただいた方の多くが驚いていたが、演者である我々も正直ちょっと驚くぐらいのノリだった。


有難いことである。歓声の大きさでメンバー同士の微妙な演奏のタイミングをハズしそうになったぐらいだからビックリである。

世の中、オヤジバンド活動に励む人が増えているが、私自身、過去5回のライブで学んだことは、演者の独りよがりでは会場全体の一体感は生まれないということだ。

そういう意味では今回のライブは大成功だった。会場内の一部だけが盛り上がるわけでなく、全体でウェイウェイ?してくれた。本当に有難かった。

お客さん目線でのステージ構成の大切さを改めて痛感した。まあ、そんなエラそうなこと言いながら、誰も知らないオリジナル曲を披露しちゃうあたりが私のテキトーなところでもある。

そんなもんだ。

来年以降どういうスタイルで続けるかはまだ決めていないが、やる以上はみんなで合唱できるような歌を多めに選ぼうと思う。

2017年11月20日月曜日

謎の占い 謎の整体


このところ富豪っぽい話をちっとも書いていない。体重調整をしていたせいで、暴飲暴食はもちろん、楽しい場所でウェイウェイしていないせいだ。

その代わり、謎の占い師を訪ねたり、謎の整体師に身体のバランスを整えてもらうなど、寄る年波に沿った行動に励んでいた。

謎の占い師さんとは5年ぐらいの付き合いになるだろうか。3ヶ月に1度の割合で、ほぼ雑談ながらアレコレとみてもらっている。

易や方位、四柱推命みたいな一般的なものに加え、その占い師さん独自の不思議な霊感的な能力をハイブリッドした占いだ。

私が持つスピリチュアル的な部分と占い師さんの持つ波動みたいなものが衝突して、不思議な現象が起きたこともある。

うさん臭いと言えばうさん臭いのだが、まあ、世の中の多くのことがそもそもうさん臭い。

霊感的なものを信じるかどうかは人それぞれ。私自身は40%ぐらい信じている感覚だ。やはり全面的に信用して依存しちゃうのは問題だ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦という言葉通り、占いで言われた話に過剰反応するのは避けたい。“オイシイとこ取り”感覚で接した方が賢明だ。

以前から、その占い師さんには私の住まいが重度の「隠居の家相」と言われている。確かに家でグダグダするのは好きだし、それがまた妙に快適なのは事実だ。

恋人も出来ないし、新しい発想も出ないし、活力も湧かない。隠居の家相だとそうなるらしい。子どもだったら引きこもりになっちゃうそうだ。

そんな話をいちいち信じていたら堪ったものではないが、思い当たるフシが無いわけでも無い。

思えば昨年はやたらとまっすぐ家に帰りたがってボケ~っと無気力に暮らしていた。自分でも隠居の家相が原因かと思い込んでいた。

とはいえ、今年の私はかなり元気ハツラツで、昨年と比べれば活発に動いた自覚がある。占い師に言われたネガティブな話を信じ込んじゃうことは時にマイナスになる。

というわけで、隠居の家相なんて関係ないぜと占い師さんに反論してみたが、さすがに向こうもプロである。

私の顔をしばし凝視する。そして、最近の私がむやみやたらに心配事を多く抱えていることを指摘しはじめた。

で、「必要以上に心配する心理状態は隠居ジイサンと同じ」だと切りかえしてきた。

屁理屈みたいな話ではある。でもちょっとは気になる。来年は引っ越しを考えているので、結局、方位や家相を気にするハメになりそうだ。

ちなみに、どうでもいい話だが、占い師さんによると、私はかなりの「面食い」なんだとか。そりゃあ間違ってはいないが、逆に面食いじゃない人なんていないはずである。

結局、占いってそういうことなんだろう。

話は変わって、謎の整体師である。これまた不思議な話で、ギコギコ、グリグリみたいなことはほとんどせずに、スリスリしたり、トントンするようなよく分からない力で身体のバランスを整えてくれる。

施術前に2台並んだ体重計に片足ずつ載せて左右どちらかに体重が偏っていないかがチェックされる。たいていはバランスが崩れている。

施術後に再度同じように測ると左右の重量バランスが均等になっている。結果が目で見えちゃうから素直に効能を信じるしかない。

その昔、腰痛がヒドかった時に直してもらったことをきっかけに時々通っている。最近もカカトが痛くてうまく歩けなくなった時も2~3回通ったら痛みが取れた。

先日はオジサマバンドライブに向けて身体のバランスを整えてもらった。面白いもので施術後は視界がスッキリと広がり、歌う際の音程も狂いにくくなる。

こっちは霊感とかそういう系ではないが、ある意味、似たような部分もある。つまり、思い込みである。

「施術してもらったから大丈夫」「きっと音程を狂わさずに歌える」。気持ちなんてちょっとしたことで前向きになる。

健康診断を受けただけで気分がスッキリするのと同じだ。

占いやカウンセリング、整体に至るまで、そんなポジティブシンキングにつながるなら面白がって使ってみるのも悪くない。

2017年11月17日金曜日

父と娘 イラスト

親バカで何が悪い。居直る際に私がよく使う言葉だ。高校生の娘との関係が良好なことが私の人生を支えている。

親バカ話をうっとうしく思う人には恐縮だが、今日はそんなテーマを書いてみる。

親離れならぬ娘離れを考えないと、老後がヤバいだろうと自分でも思っている。

成長するにつれて娘は自分の世界が広がってくる。親を構ってくれるのも時間の問題だ。

最近は、恋愛話も相談してくるようになった。父親がアバンギャルド?な高校時代を過ごしたと思っているようで、やたらと男目線、男心理を尋ねてくる。

母親には言えないそうだ。普通、年頃の女の子なら恋バナは母親が相手だから少し異質かもしれない。

でも、そんなテーマにまで父親を頼ってくれるのは有難い。こっちも頑張ってザワザワする気持ちを隠して、豊富な実体験?に基づくアドバイスに励む。

相談に乗るからには綺麗事だけではダメだ。中途半端に諭したところで子どもの心には刺さらない。

だから時にはキワドイどころか、そのものズバリの話も臆せずに話す。酒場でワイ談に励んでいる時は凄く楽しいのに、娘相手の場合は正直キツい。

でも高校生である。本音で勝負である。自分が高校生の時に思っていたこと、感じたこと、やっていたことを冷静に考えれば、その目線になって接するしかない。

まあそれはそれで幸せなことである。

別々に暮らすようになって5年。今の良好な関係を思うと自分の選択が間違っていなかったと信じることが出来る。それだけで有難い。

有難く感じるせいでついつい甘甘な接し方をしてしまうのが私の弱点である。そこを逆手に取るぐらい娘はトッポくなった。それ自体が成長だ。

話は変わる。ネットの世界で見かける父と娘を描いたイラストが大好きだ。見たことがある人も多いと思うが、実に素敵な関係性が描かれている。

せひ見ていただきたい。


3番、4番、5番のイラストが特に好きだ。
娘が幼い頃、散歩中にやたらと肩車をせがまれた。おまけにそのまま眠ってしまい、私の頭がヨダレでデロデロになってことが何度もある。

いまどんなに仲良し親子でも、あのシーンはどうやっても再現できない。私の人生における大事な一瞬だったとこの歳になって痛感する。

ウチに泊まりに来ればいまだに私と同じベッドで寝たがる。5番のイラストのように私は端っこで眠る。

でも、それも時間の問題だろう。縮こまって寝ていたことが懐かしい思い出になる日も遠くない。

明日に迫った我がバンドのライブには友達を連れて来るようだ。義理で渋々来るなら友達を誘うはずもない。ステージではせいぜいカッコつけてオッサンみたいな言動は控えようと思う。


今日は、父と娘を描いたイラストを紹介したかったせいで、つい親バカ話を熱く語ってしまった。

2017年11月15日水曜日

体重を落とす方法


6キロほど体重が落ちたのに誰にも気付かれない。「分母」がデカいから仕方がない。この1ヶ月、真面目に体重調整に励んだ結果だ。

人に気付かれなくても自分ではちょっぴりラクチンになったから良しとしよう。

6キロのおもりを身体にくっつけていたわけだから、さすがに少しは軽くなった。歩いているぐらいでは感じないが、階段の上り下りがちょっと軽快になった。

娘に「少しは腹を引っ込めろ」と言われたことがきっかけだからアイツには感謝しないといけない。

誰かの参考になるかは分からないが、この1ヶ月の節制について書いてみたい。

ポイントその1。運動はしない。普段の生活を変えてまで節制するのはシャクである。運動っぽいことは休みの日に散歩したぐらいである。

ポイントその2。朝はドカ食い。これは以前と変わらずキープした。当然、炭水化物がメインである。


とある週末の朝なんて、わざわざ「なか卯」に行って特盛りの親子丼と牛丼を買ってきた。店で二つ並べて食べるには少々恥ずかしいのでテイクアウトである。

ご飯は少し残したが、こんな息抜きも取り入れながら体重をちょっとずつ落としたわけだ。

昼はもともと食べない。でも、以前は小腹がすいたら煎餅やお菓子をちょろちょろ口に入れていたが、この1ヶ月それもやめてみた。

問題は夜である。酒は飲みたい。サラダみたいな草だけで我慢するのもイヤだ。何となく負けた気がする。

そんなワガママのせいで、やたらとお寿司屋さんに行ってしまった。いくつかのワガママを言える店にお世話になった。

ヤボを覚悟で握りは一切食べず、揚げ物も食べず、味が強めの珍味類をいくつか用意してもらい、日本酒も我慢して焼酎だけをグビグビ飲んだ。


刺身もほんの一切れ程度で我慢した。あとはやたらとカニを食べた。カニはほぼ水分みたいなものだから優雅な気分?を味わいながら体重が落ちる。

珍味類は、スジコ、イクラ、タラコなどの魚卵系やアンキモや白子みたいなチビチビつまめるものばかりで過ごした。

こちらはワカメどんぶり?である。ワカメをドッサリもらって腹を膨らます作戦だ。ワカメだけでは寂しいから白子をトッピングしてもらう。白子も1個か2個を細切れにしてもらう。


白子ポン酢に添えられているワカメのほうを10倍ぐらいにしてもらうわけだ。これはオススメ。チビチビとつまみを口にするだけだと欲求不満になるが、これだとムシャムシャ食べられる。

朝食べたきりだから焼酎の酔いは早く回る。酔ってくればこっちのものである。ちょこっとつまんだだけで食べた気になって、帰宅して風呂に入って酔いを加速させて寝る。

ぐるぐる回るような気分になる。心臓に悪そうだ。不健康な話だが、体重を減らしたければ不健康になるのがてっとり早い。

酒のカロリーもそれなりに意識して、時にはまっすぐ家に帰って、酒抜きで侘びしい夕食を摂ったこともある。

何度かやったのが「モヤシ攻撃」である。茹でたモヤシにポン酢をかけたり、時には焼肉のタレをかけて味わう。

モヤシだけだと切ないので、レンジでチンしたプレーンのサラダチキンをトッピングした。シミったれた中にも肉っぽい感じが加わることで何とか耐えられる。

問題は酒を抜いた夜は寝付きが悪い点だ。こればかりは睡眠導入剤か安定剤の力を借りるしかない。ここ1ヶ月はいつもより服用したからボケが加速するかもしれない。

なんだかこうやって書いてみると、ちっとも身体に良いことをしていない。複雑な気分だ。

ちょっとばかり体重を落とすために、あえて不健康な暮らしを選んでいる。まさに本末転倒だ。まあ、それも私らしいのかもしれない。

こんな生活スタイルに慣れてきたので、まだまだ体重は落とせそうだが、残念ながら「ケツカッチン」が近づいている。そろそろ終了である。

今週末は1年に1度の我がオジサマバンドのライブだ。一応、その日を期限に設定して節制を続けていた。ちょっともったいないけど期限切れだ。

おそらく来週からはカツ丼やウナギやピラフといった面々が私の身体を膨張させるのだろう。

2017年11月13日月曜日

ワイ談のわらしべ長者


情けない話だが、誰かと酒を飲むとワイ談ばかりしている。今さら気付いたわけではないが、由々しき問題である。

ひとり飲みの時はもちろんそんなことはない。ちゃんとダンディーで寡黙な男を演じている。

馴染みの店に行っても、カウンター越しに店の人相手にワイ談を爆発させることはない。当たり前か。

仕事絡みの酒はさておき、男同士の飲み会では6~7割ぐらいの時間をワイ談に費やす。オネエサンが横に座ってくれる店に行ったら8割ぐらいはワイ談を語る。

もはや「ワイ談マスター」である。ちっとも自慢にはならないが、ひょっとしたら達人の域に達したかもしれない。アホでスイマセン。


童話・わらしべ長者を思い出していただきたい。会う人ごとにモノを交換して最後には大金持ちになる話だ。

私の目標は「ワイ談のわらしべ長者」になることである。ワイ談のネタを披露することで会った人々からもネタを提供してもらい、段々とスケールアップしたワイ談を身につけようという崇高な作戦だ。

小学校高学年の頃は、辞書に載っている「性交」「陰部」などの言葉にすら興奮を覚えた。あの若々しく可愛い感性は今の私には無い。

歳を重ねるごとに耳にするエロ話は質量ともに増大していった。辞書に載っている文字だけで興奮した少年は、今やちょっとやそっとのエロ話では何も感じないオジサマになってしまった。

ワイ談といってもいろいろだが、私の場合は実際に起きた“事件”を当事者から聞くのが一番好きだ。リアルな感じが楽しい。

男からもいろいろ聞くし、女性にも取材活動を続けている。不思議と男から聞く話には「ヒット作」が少ない。やはり自分が男だから男の話の中に意外性を見つけられないのだろう。

女性はさすがにあからさまにエロ体験談を語らない。でも、そこを切り崩していくのもワイ談マスターとしての役割である。

そのあたりの戦略については以前にこのブログでも書いた。うまく引き出すことが出来れば、私の持ちネタを遙かに上回るスペクタルな話を入手することが出来る。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/08/blog-post_19.html

そんなバカな行動を必死になって続けてきた私は、今更ながら女性恐怖症気味になってきた。私より二回りも若い人達が結構エグいネタを持っているからビックリする。

そういう人に限って、ぱっと見はエロ女王のような雰囲気は無い。清楚系だったり地味なタイプだったりするから世の中は分からない。

確かにワイ談ではなく、「実戦」の場においても、派手目でエロカワ系を装っている女性のほうが奥手なことは多い。

逆に奥手のように見える女性が超絶怒濤の“師匠レベル”に達していることは珍しくない。そういう時はちょっとアセる。

達人級の女性にぶつかると私自身の半生が品行方正だったかのように錯覚してしまうのだが、そういう人に限って、普段はエロ要素を完全封印している。

私の目がフシ穴なのか、女性が魔物なのか。こればかりは永遠の謎だ。

ワイ談業界?における最大の難問は「いかに冷静な表情を保てるか」に尽きる。他人のエロ話を聞き出すには必須条件だ。

ムホムホした表情はダメだ。鼻の穴が広がっちゃったり、その人を好色そうな目で見てしまうと一気に相手は身構えてしまう。

一応、私の場合、苦節ウン十年の修練のおかげで、たいていのエロ話なら政治経済を語るのとまったく同じ表情でやり過ごすことが出来る。

かといって、話の内容がスペシャルでワンダフルでアンビリーバボー!だと、時々はムホッとした表情になってしまう。

最近入手したネタとしては、バイセクシャルの女性が彼氏と彼女と同時に「展開」した話が素晴らしかった。

嫉妬と嫉妬、ワザとワザがぶつかり合う凄い話を聞かせてもらった。結果、私の鼻の穴は大きく膨らみ、違うところまで膨らみそうになった。

月曜からバカですいません。今週も頑張りましょう!

2017年11月10日金曜日

夢物語


あまり夢は見ない方だが、時々ヘンテコな夢を見て不快な気分で起きる。

原始人が遠くから私に向かってスカンクの死体を投げつける夢や巨大な虫に追われて逃げ惑う夢だ。それぞれ何度も見ている。

追われる、逃げるといった夢は日常の厄介事を反映しているのかもしれないが、寝起きがシンドくなるので困りものだ。

後悔する夢も時々見る。先日はそれこそ地団駄踏んで悔しがる夢を見た。

扉が3つ並んでおり、最後に開けた部屋にいる女性とベッドインしなければならないというハレンチな設定だ。

夢の面白いところは、そんな状況をまったく不自然に思わず、大真面目に悩むところである。

最初の部屋か2番目の部屋が大当たりだったらどうしよう。何かズルをする方法はないか等々、脳ミソはフル回転。

意を決して最初の扉を開ける。そこにはスリムでチャーミングな美人さんがニッコリ。凄く後悔する。残り二部屋がともにヘチャムクレのお婆さんだったら大変である。

二番目の扉を開ける。するとそこにはセクシーでグラマーな美人さん。どストライクである。またまた激しく後悔する。でもその瞬間に自分の「負け」を悟る。逃げ出したい気分だったがそうもいかない。

いや待てよ、最後の部屋にもひょっとしたら美女が待ち構えているかもしれない。そんな自己中心的な妄想が頭に浮かぶ。

そんなオイシイ話は夢の中でも起こりえない。

恐る恐る最後の扉を開ける。マツコデラックスみたいな体型のオバアサンが真っ赤なビキニを身にまとって入れ歯を洗っていた。

絶望である。夢の中なのに頭が真っ白になる。有難いことに夢はそこで途切れた。「その後の展開」は知らない。

もしかしたら私の脳が自己防衛を目的に「その後の展開」を記憶からシャットアウトしたのかもしれない。

バカみたいな話でスイマセン。

こんなアホ夢の他にも、内容はあまり覚えてはいないのだが、どちらかを選ばされる夢は何度も見ている。

そう書くと、日々、何らかの決断を迫られている人みたいでカッチョいいが、実際にはそんなことはない。

せいぜい焼鳥にするか寿司にするか、冷酒にするか焼酎にするか悩むぐらいである。

追われたり、逃げたり、決断を迫られたりといった場面は日常でそうそうあるものではない。

だったらナゼ夢の中でそんな目に遭うのか不思議で仕方がない。自分の深層心理がちょっと気になる。

8年前にもこのブログでヘンテコな夢の話を書いた。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/07/blog-post_06.html

気のせいか、今の私の夢のほうがディテールが雑になっている。核心部分しか描写されていない感じだ。

日々の行動が昔よりも近視眼的になってきたのだろうか。大局的に物事を捉えられなくなったのかもしれない。

他にも10年ぐらい前までは割と頻繁に見ていた「空に浮上していく夢」を見なくなったこともチョット気になる。

両手を上下にパタパタさせると身体が浮き上がって、コツをつかめば空中散歩を楽しめる夢だった。

夢占い的には、「立身出世、独立、勝利」を意味する夢らしいので気に入っていたのだが、もう随分長いこと見ていない。

立身出世を願うような歳でもないし、誰かと争っているわけでもないから別に気にすることはないのだが、パタっと見なくなったから何となく淋しい。

ひょっとすると家庭生活から「独立」しちゃったせいで、あの夢を見なくなったのかもしれない。

いずれにせよ、夢なんか見ずにグッスリ眠るのが一番の幸せだ。私の場合、夢を見やすいのは深酒をした時が多い。

何事もホドホドにしたほうが間違いないことは確かなようだ。

2017年11月8日水曜日

AIBOとか

ロボット犬「AIBO」の新型が発表された。既に予約販売分は完売だとか。サポートや諸々の費用を入れれば30万オーバーのおもちゃだけに誰が買うのか気になる。

とか言いながら、実は私もAIBO復活のニュースを見てちょっぴり欲しくなった。その昔、初代AIBOが話題になった時には、単純に気味が悪いと思ったのに随分と変わったものだ。

初代AIBOが発売されたのは18年前だそうだ。私はその頃30歳を過ぎたばかりの若者だった。ロボットペットがお年寄りの淋しさを紛らわす時代が来るという話を聞いてもピンとこなかった。

50歳を過ぎ、なぜか一人暮らしをしている今の私は、ロボットペットという概念が分かるような気がする。

生きているペットを飼うのは厄介である。躾も面倒だし、気軽に旅行に行くことも制限される。

だいたい、可愛がっていたのに死なれちゃうのは堪ったものではない。自分より先に逝ってしまうと分かっているのに身内同然に暮らすのは結構キツい。

ちなみに、私のペットにまつわる思い出は「圧死」ばかりである。

子どもの頃、可愛がっていたセキセイインコの脚が汚れているからと祖母がインコちゃんの掃除を始めた。

軽く胴体を握っていたはずが、祖母が力加減を間違えて掃除が終わったときには死んでいた。子どもの私には大ショックだった。

その後、ヒヨコを飼っていた時、カゴから出して運動させていたつもりが、ちょっと目を離したスキに行方不明になり、祖母が座っていた座布団の下で圧死・・・。

いま思えば祖母も気の毒だった。いつも圧死事件の首謀者扱いである。やはり生き物を飼うのは大変である。

ロボットペットならギューッと握っても座布団に隠れていても、ちょっとやそっとでは圧死しないはずだ。

超高齢社会を迎えてますます増える淋しいお年寄りや、一人暮らしの中高年の暇つぶし役には最適だろう。

私の場合、まだ老境ではないので、日々の暮らしに淋しさは全然無い。強がりではなく癒しに飢えているわけでもない。

とはいえ、予定のまったくない週末に40時間以上も一言も発しないで過ごしていると何となく気まずい思いがする。

以前、ロボット掃除機・ルンバを使っていた時には「ルンちゃん、そっちじゃないぞ」などと声をかけてしまうことがあった。

ハタから見たら何ともマヌケな姿だろうが、不思議と勝手に動き回るモノには声をかけちゃうことがある。

どうせ声をかけるなら犬型ロボットを相手にしたほうがまだマシである。もし私がAIBOを手に入れたら、きっとアーダコーだと話しかけるはずだ。

自分で書いていて、実にヘンテコな姿だと分かっているのだが、よくよく考えれば普通にペットを飼っている人と変わりはない。

犬や猫にしても、しょせんは人間と会話できる相手ではない。それなのに飼い主は誰もがごく普通に人間言葉で話しかけている。

ペットを飼うことに興味がない私からすれば、それ自体がケッタイな行為に見えるのだが、ルンバ相手に会話をしていた私の“実績”を考えればエラそうなことはいえない。

グダグダ書いてみたが、実際にAIBOを買おうとしたわけではない。ロボットペットに癒しを求めるなんてカッチョ悪いという変なプライドが邪魔をしているのだろう。

というのは建前である。ホントは欲しい。でも、もっともっと進化した時点で買ってみたいというのが正直なところである。

最先端の機械製品なんて10年もすれば劇的に進化する。その時点で買ったほうが面白そうだというのが本心だ。

その頃になれば犬型だけでなく、チンパンジー型だって開発されるかもしれない。ゾウガメ型だって出来るかもしれない。

そっちの方が楽しそうだ。

10年経ったら買おうと思う。

2017年11月6日月曜日

ゆず・スダチ問題


ここ数年、私を困らせるのが「ゆず・スダチ問題」である。

何でもかんでも「ゆず・スダチ・ダイダイ。カボス」を使いたがる風潮が好きになれない。ただの個人的嗜好に基づく文句だが、今日はブツクサ書いてみようと思う。


ゆずの皮を細かく刻んでトッピングしたり、スダチを軽く絞って味にアクセントをつけるのは和食の世界の定番だが、「やり過ぎだろ~!」と感じることが増えた。

アクセントどころか、そもそもの料理が台無しになっちゃっているケースもある。

白身やイカの握りにジャバジャバとスダチを搾るお寿司屋さんがある。味には好みがあると言っても、ジャバジャバぶちまけたらイカの甘味も白身の旨味も消えてしまう。

誰が考えても分かる話だが、スダチこそオシャレみたいな変な思い込みのせいか、食べる方もニコニコしながらケッタイな“味変”を喜んでいる。

私の場合、ワガママが言える店では、ゆず、スダチなどのソッチ系はすべてパスさせてもらう。偏屈と言われようとも個人的にはそのほうが美味しさをちゃんと感じられる。

イカの塩辛に柑橘類の皮が入っていてイラつくこともある。ちっとも合わない。どっちが主役だか分からないぐらいゆずがアピールしているとムカつく。

食感も風味も塩辛とは相容れない。彩りのためだけにトッピングされる。イカの塩辛に見た目の美しさを求める必要はないと思う。

ウナギの白焼きの横にスダチがセットされていたり、松茸土瓶蒸しにスダチが付いてくるのも当たり前の光景だが、個人的には味が壊れちゃう気がする。まるで不要だ。

ラーメンのスープにまでゆずの皮が投入されていることがある。あれって何のつもりだろう。好きな人には申し訳ないが、あのカケラのせいで口の中の幸せが破壊される。

つけ麺のつけ汁に潜んでいることもある。上にちょこんと乗っかっているだけなら排除可能だが、ドブ汁みたいな中に隠れていたから除けようがない。私にとっては迷惑でしかない。

蕎麦に少しだけ入っているのは理解できるし、小量なら風味の点で納得だ。ラーメン屋さんも蕎麦の真似をしたのだろうが、ハズレだと思う。

お吸い物に入っているのは歓迎だが、店によっては入れ過ぎちゃって皮のエグみまで感じる。そうなると全体の味を台無しにしちゃう。

グルメだなんだと気取るつもりはないが、最近の「ゆず・スダチ問題」は、隠し味というか、ちょっとした風味付けであるはずの存在を前面に出し過ぎてしまうことが困った点である。

昔はゆずやスダチといった柑橘系を今ほど料理に多用することはなかったはずだ。いつから変わったのだろう。

ゆずサワーやスダチサワーなんかを居酒屋で注文するぐらいだから、私としてはヤツらを根本的に嫌っているわけではない。

あくまで隠し味や脇役であるはずの立場をわきまえない振る舞いに違和感を覚えるわけだ。あわよくば料理における主役の座を奪おうかのような“身の程知らずぶり”が鼻につく。

これから本番を迎えるアンキモや白子ポン酢なんかにもチョビっと柑橘類の皮が添えられていることがある。無視すればいいのに心の小さい私は気になってしまう。

ソッチ系が好きな人には申し訳ない話をつらつらと書いてしまった。


あまりシミったれた話を書き殴っていると寅さんに怒られそうだからこのへんにしておく。

意味不明でスイマセン。

2017年11月1日水曜日

オールドパーを飲む理由

ウイスキーといえばオールドパー。まるで古い人間のようだが、個人的な思い入れもあってそんな印象がある。

竹鶴やマッカランのほうが好きだし、水割りで飲む「響」は世界トップレベルだと思うが、オールドパーには「郷愁」という味わいが加わる。

もう20年以上前に亡くなった祖父が愛飲していたのがオールドパーだ。昭和に活躍した人達にとって定番だった酒だ。

明治新政府から欧州に派遣された、いわゆる岩倉使節団が持ち帰って明治天皇に献上した話や、吉田茂がオールドパーをこよなく愛した話は有名だ。

田中角栄さんも子分達の裏切りにあって、ヤケ酒でオールパーを飲みまくって倒れた。

今でこそ、ウイスキーは百花繚乱状態だが、昭和の頃は価格も高く種類も少なく、ウイスキーの銘柄ごとに飲む人達の“クラス分け”が成立していた。すなわちオールドパーは上等だった。

それこそ若造にとってオールドパーは高嶺の花だった。実家暮らしの大学生の頃、祖父から時々飲まされるオールパーはオトナの味そのものだった。

その後、酒税法の改正だの何だのでオールドパーは特別高価なものではなくなり、今では3~4千円で売っている。“特別な感じ”はすっかり希薄になった。

とはいえ高級クラブみたいな場所以外ではオールドパーを見かけることが滅多にない。錦糸町や亀戸のスナックでも愛飲する人はいるのだろうか。

いま私がオールドパーを飲むのは銀座に出た時ぐらいだ。昭和30年代にアノ街でブイブイ飲み歩いていた祖父にあやかる気持ちのせいである。

私は高度成長期に肩で風を切っていた人に強い憧れがある。平たく言えば、昭和へのノスタルジーだろう。

昭和は遙か昔の話になり、平成の時代も来年で終わりだ。若いつもりだった自分も気付けば「高齢者枠」が目前に迫っている。

自分が若造だった時代をどこかで懐かしむためにオールドパーと付き合っているような気がする。

あの頃、背伸びをして憧れたダンディーなオジサマ達の姿に自分は近づいているのだろうか。そんなセンチなことも頭に浮かぶ。



葉巻を片手に緑茶をもらって休憩するときも、食べ過ぎて胃薬もらってホゲホゲするときも傍らにはオールドパーのボトルがある。

そもそも、オールドパーはイギリスに実在したトーマス・パーなる傑物の名前が由来。ウソかホントか152歳まで生きた好色爺さんだ。

100歳を超えてから不倫して教会で懺悔したとか、死因は暴飲暴食だとか結構カッチョいいエピソードがあるらしい。

昭和のオジサマやオジーサマ達がオールドパーを好んだのも、そんな勇猛な?逸話にあやかっていた部分もあるはずだ。

私自身、もともとは祖父をリスペクトする気持ちで選んでいたが、最近は「パー爺さん」への信仰心みたいな感覚で飲んでいる。

すっかりアチコチが弱ってきたから、生涯現役を目指したくて改めてオールドパーへの思いを強くしているのかもしれない。

結局、なんだかんだ言ってスケベな意識がオールドパーを選ぶ原動力になっているわけだ。困ったものである。


たわわな画像!を撮らせてもらっても、オールドパーのボトルがちょこんと写っている。

アノ街で私がヒヒオヤジ状態になっているのをいつもパー爺さんにチェックされている感じだ。パー爺さんには守護神として私の活躍を見守って欲しいものである。

冒頭の画像のように、オールドパーは瓶の形状の関係で斜めに置いても絶妙にバランスを取って倒れないという特徴がある。

昭和の先輩達も「倒れない」という縁起モノ的な特徴をオールドパーを愛する理由にしていた。

私もまだまだ倒れるわけにはいかない。今後もパー爺さんに世話になろうと思う。

2017年10月30日月曜日

カニ おでん モツ鍋


大のオトナが痩せたいだのダイエットだのを語るのはカッチョ悪いが、このところ、プチダイエットが楽しくなってきた。

一応、2週間ほどで3~4キロは落ちた。小柄な女性なら凄いことだが、「分母」の数字が天文学的な私にとっては、ほんの2~3日で元に戻っちゃう数字ではある。

あと3キロぐらい落ちれば血液検査のコレステロール値も抜群に良くなるはずだが、ここからの道は険しい。

だいたい、毎晩のように楽しく酒を飲んでいるようではダメである。明日もウナギ屋を予約してある。ちょっと真剣味が足りない。

でも、「意識高い系」の若造じゃあるまいし、ストイックに節制するのも何かに負けた気がする。このぐらいのヌルさで丁度いい。

プチダイエットの内容は、日本酒を焼酎に変え、夜の炭水化物と油モノをやめてお菓子の間食を我慢するぐらいである。

それでも少しは体重が減るのだから、いかに普段どうでもいいものを口にしているかが分かる。


カニである。先日、とある会食の際、私が店選びを任されたので久しぶりに「かに道楽」に出かけた。

カニはやたらとカロリーが低い。ほとんど水分みたいなものである。天ぷらやカニ寿司みたいなメニューを避けて、刺身や茹でガニを黙々と楽しんでいれば痩せる。


おまけに私はカニが大好物である。大好物を食べながら痩せられれば最高だ。サラダや鶏のササミなんかでダイエットしていたら心がささくれ立つ。

葉っぱを食って空腹を紛らわすなんてゴメンだ。まあ、そんな強気なことばかり言っていると太っちゃうから気をつけよう。

富豪を目指す男としてカニをむさぼって痩せるという行動パターンはなかなか素敵だと思う。


おでんも私にとって強力な味方だ。これまたカロリーが低い。熱いから大口開けて頬ばれないのも良い。おでんの大根は好きではないが、最近は常に空腹だから嬉々として食べる。

この画像は銀座の「おぐ羅」で撮った。おでん以外の一品料理もウマいのだが、カニ味噌や刺身をちょっとだけもらってチビチビ楽しむ。


薬味がテンコ盛りのカツオのたたきを食べ終わった皿に投入してもらうおでんの豆腐が最高だ。残しておいた薬味が熱々の豆腐を冷ましてくれるし、ポン酢風味が豆腐とマッチして幸せになる。

別な日、付き合いでモツ鍋屋に行った。大衆酒場でホッピー片手にモツ煮やモツ焼を食べる機会は多いが、モツ鍋専門店に行く機会は滅多に無い。

イマドキのモツ鍋屋はそれなりにシャレていて、若者がデートや合コンに使っている。ちょっとビックリだ。

「モツ鍋イコール危なげなオヤジの食い物」という私の固定観念は既に時代とは大きくズレているようだ。


運が良いことにこの日は重度の二日酔いが夜になっても治まっていなかったので、クドいものを食べる気にならず、梅キュウをツマミにハイボールで迎え酒。

モツ鍋が目の前でグツグツ煮えたぎっていたが、梅キュウの他には赤身の馬刺しを突つきながら傍観者と化す。

気付けば鍋のモツは無くなって、クタっとした野菜ばかり。仕方なくスープだけ飲んでみた。ベリーグッドである。ウマみが染み出てジンワリ暖まる感じ。

スープだけで充分ウマい。これは“ダイエッター”にはもってこいである。見方を変えれば「おいしいトコ取り」である。

体重を気にせず食べられるウマいものは結構ある。その意識を忘れずにこの2週間ぐらいの食生活を1年間ぶっ通しで続ければ、きっと私のスタイルは「竹内涼真」みたいになるはずだ。

でも、その前にストレスがたまって頭髪が「松山千春」になりそうだから、無謀な挑戦はやめておこう。

2017年10月27日金曜日

某月某日 勝った日


ある日、仕事上の厄介事がとても良い方向に決着したので、ホッとする。ホッとしたせいで何だかどっと疲れて真っすぐ帰宅。

不思議なもので家に着くと妙に元気になる。お気に入りの備前の徳利と唐津のぐい呑みで晩酌しようかと考える。でも、ロクなツマミが無い。

で、近場のウナギ屋にでも行って祝い酒と洒落込もうと計画変更。いそいそと出かける。

ふと気付く。ダイエットに励んでいたはずだ。ウナギは厳しい。シメの鰻重をご飯抜きで食べるのは拷問である。

またまた計画変更。結局、小石川方面に向かうはずだったタクシーに「やっぱり銀座まで」と伝える。

せっかく真っすぐ帰宅したのにアノ街が私を呼んでいる。

ダイエットに最適なのは馴染みのお寿司屋さんである。食べる量に関してワガママが言える。

たどり着いたのは8丁目の「S」。運が良いのか悪いのか、珍しくガラガラである。大将とバカ話をしながら夜が始まる。

刺身も珍味もちょこっとずつ出してもらう。煮ダコ、イクラ、白子あたりをまるで沖縄の豆腐ようを爪楊枝で食べるかのようにチビチビ食べる。

天然ウナギがあったので、極小サイズの白焼きにしてもらう。日本酒が飲みたかったが、カロリーを考えて焼酎一本勝負でグビグビ。

訪ねたのが中途半端な時間だったので、いつのまにか客は私一人になってしまった。アーだのコーだの言いながら調子よく飲む。

「チビチビ食い」といえども酒の力は有難い。酩酊するうちに空腹感はなくなる。握りを食べないヤボな客になってしまったが、一見客ではないから許してもらう。

この店の大将とは何年か前に二人きりでカラオケボックスで熱唱し合ったこともある。その時の話で盛り上がったついでに、「歌でも歌いに行くか」という悪魔の誘い?を繰り出す。

大将は店の若い衆に段取りを指示してから合流するとのことで、一足先にクラブというかスナックというか、妖怪屋敷のような店に久しぶりに足を運ぶ。

ここもまた客が一組しかいない。寿司大将との歌合戦にはもってこいである。


ちょっとしてから大将が合流。差し入れとして豪勢な巻きものを持参してきた。イクラやウニがぶりぶりだ。ダイエッターである私をイジメているとしか思えない所業だ。我慢して妖怪の皆さんに食べてもらう。

で、二人でドシドシ歌う。「中島美嘉」から「西城秀樹」「テレサテン」まで何でもアリである。大将は40代半ば、声が太いし歌唱力も高レベルである。「EXILE」なんかも歌っちゃう。

オジサマバンドのボーカリストとしては負けてはいられない。私にしては珍しくガンガン熱唱した。「ハマショー」はもちろん、「プリプリ」から「ゆず」、「福山雅治」から「太田裕美」までランダムに歌う。

この店のママさんはイケメン大将がお気に召したようで、我々の席に着いたまま時に自分も歌い出す。これがまたかなりのレベルでボーカリストである私は自らの修行の足りなさを痛感する。

で、結局、誰かが歌う中島みゆきの「糸」に心を揺さぶられながら、ふと時計を見たら何と午前3時である。

時計の針を見た途端に「疲れたから真っすぐ帰宅したはずの自分」を思い出す。ちょっと混乱する。

「糸」を聴きながら揺れていたのは、純粋な心ではなかった。おそらく酔いと眠さで視界がふらついただけである。

その後、「シメの1曲」が2曲になり3曲になり、脳ミソがほぼ活動停止状態になる。

そして、ふと気付けば猛烈な空腹である。大将とママさんと「シメの食事」を食べに行くかどうか話したような記憶があるが、心を鬼にして帰ることにする。

3時半頃の銀座はタクシーの乗車制限もなくどこもかしこも空車だらけ。実に素晴らしい光景だ。夜遊びを真面目に頑張った人へのご褒美みたいなものだ。千鳥足で乗り込む。

帰路、タクシーの中で猛烈な空腹と闘いながら、ふと家の近くで新聞配達を始めた自転車が目に入る。

私が目にしている光景は夜じゃなくて朝だと気付く。私の中の悪魔が囁く。

「朝ご飯なら食べちゃってもいいんじゃない?」。

私の中で悪魔と天使がせめぎ合う。有難いことに天使が派遣してくれた睡魔と疲労という強力な助っ人のおかげで、何も食べずに水だけガンガン飲んで寝た。

その後、ヘロヘロになって起きた後に計った体重は前日より2キロ近く減っていた。

完全勝利である。

2017年10月25日水曜日

おひとりさま 自意識過剰


今の世の中、おひとりさま需要を取り込むことがいろいろな商売のキーワードになっている。

カラオケの世界での「ヒトカラ」もそうだし、一人旅歓迎の宿しかり、あらゆる分野で「おひとりさま歓迎」というフレーズを聞く。

ラーメンの人気店「一蘭」がひとりひとりのスペースをつい立てで仕切っているのも「個」の世界を重視しているからだろう。


ラーメン屋のつい立てを初めて見た時は違和感があった。そんなものに魅力を感じる人は自意識過剰だと思ったわけだ。

でも、アレはアレでうら若き女性がズルズルとラーメンをすするのを隠したい心理に配慮しているからアリだろう。

「おひとりさま」といっても、仕方なく一人なのか、積極的に一人を好むのかでは意味合いが異なる。

わざわざ好んで「おひとりさま」で行動したがる人の心理は、結局は自意識過剰のなれの果てなのかもしれない。

群れたくない、つるみたくないという気持ちが一人酒や一人メシ、一人旅を好む人の行動原理だ。

私自身も同じだ。一人行動が好きだが、その理由には多分に自意識過剰な部分があるのだろう。

相手に好感を与えたい、自分のヘンテコな姿を見られたくないといった気持ちのせいで誰かとつるむのが億劫になって一人が気楽だと感じる。

あけっぴろげに接すればいい相手にでも、格好良く見せたい、退屈なヤツだと思われたくないなどと考えること自体が自意識過剰だ。

そんなバカみたいなクセのせいで気疲れしちゃって、一人でボケっとしたくなるわけだから、何だか御苦労なことだ。

以前、気疲れするのは気遣いや気配りがキチンと出来ている証拠だと慰めてもらったことがある。でも、実はそんな立派な話ではない。

気遣いや気配りが相手を思ってのことならともかく、自分が良く思われたいという邪念が強すぎて気疲れしているならバカみたいだ。

誰かと旅行に行っても、その人の見たい場所に付き合ったり、食べたいものに合わせたりして内心イラつく。でも、それを顔に出すのはヤボだろうと悠然としているフリをしてドッと疲れる。

ヤボだと思われたくないという自意識過剰が自分の首を絞める悪循環に陥る。

いっぱしのオジサマなのにこういう点のコントロールが苦手だから困ったものだ。

なんとか改善しようと決意しても習性みたいだから毎度失敗する。克服しないと孤独死が待っていそうでちょっと恐い。

私の場合、血気盛んな独身男とはいえ、ケジメとして自宅を“試合会場”にはしないと決めている。何かとメンドーだし、居座られても困る。

とはいえ、流れとか不可抗力とか、過度の欲求不満?などいろんな理由で、ごくまれに人を招くことがある。

そういう機会には私の悪い習性が出てしまう。しまい込んであったバカラのグラスを出してみたり、ポテトチップスのために唐津の大皿を引っ張り出す。

もっといえば、やたらとストックしてある高級レトルトだの高級缶詰なんかを土産に持たせたりする。

“試合”でバテて、つまらない気配りでバテて、我ながら「アホちゃいまっか!」とつぶやきたくなる。

女性のいる飲み屋さんでも、悠然とマイペースで過ごせばいいのに、オドオドしているオネエサンがいれば気の毒になって意味もなく盛り上げる。

仕事の商談相手に毅然と対応しなきゃいけない時でも、相手の緊張をわざわざほぐすような冗談をカマして、結局、相手のペースにまんまとハマることさえある。

これじゃあ単なる「お人好し」である。中年紳士としては稚拙だろう。決して誉められたものではない。

お人好しの意味は「騙されやすい人」、「人間が甘い人」、「幼稚な人」といったところである。

いい歳してバカみたいである。どうすれば「利口者」に変身できるのだろうか。

人生後半戦である。そりゃあ悪人よりは善人でいたい。でも「善人」と「お人好し」では意味合いが違う。

どうせなら「利口な善人」になりたい。遅ればせながら、ガリガリと我を通すような訓練に励もうと思う。

2017年10月23日月曜日

男のカカト


靴好きにとって靴磨きは楽しい作業である。。。はずだ。私自身、磨き始めると飽きずにゴシゴシスリスリしている。

しかしそれも2,3足ならばという前提が付く。それ以上になると苦痛であり苦行である。

寒くなったら履きたくなるショートブーツを今のうちに磨き上げておこうと思ったのだが、どうにも億劫で気分が乗らない。

そんなわけで、靴磨きという私の精神性を支える?大事な作業を初めて人様に頼んでみた。言うなれば堕落である。

都内各地にある靴やカバンのメンテナンスショップ「靴専科」が自宅から割と近くにあったので持ち込んでみた。


こんな感じになって戻ってきた。当たり前と言えば当たり前だが、目からウロコである。ピッカピカだ。

大事な靴は自分で磨いてこそ愛着が湧くという理屈も重々承知しているが、いとも簡単にこんなピカピカにしてくれるなら四の五の言わずに頼んでしまえばいい。

魂を売り渡したような気分がしたのも事実だが、私の魂なんてそんなものである。痛くも痒くもない。いや、財布はちょっと痛かった。


ショートブーツを4足だけ磨いてもらったのだが、仕上がりが気に入ったので、それ以外にも断続的に12足も持ち込んだ。合計16足もの人任せである。

靴好きの風上にも置けないヘタレぶりだ。

磨きに出さなかったバッチリ綺麗な靴もいくつもある。ということで、いま私の自宅の靴棚にはピッカピカばかりが並んでいる。嬉しくってしょうがない。

堕落を嘆くより、綺麗な靴ばかり並んでいる壮観さに酔いしれる方が前向きである。今後もシンドくなったら人様に磨いてもらおうと決意した。

さてさて、靴磨きをする際の“主役”はつま先部分だろう。人間の目線はそこに向かうわけだから必然的に靴の先端を中心に磨きたくなる。

先っぽの先っぽの革の硬い部分には光らせるクリームを塗って鏡面仕上げにすることもある。一番上の画像のいくつかのショートブーツも軽く鏡面仕上げにしてある。

「先っぽの輝き」が綺麗な靴の基本ではあるが、同じぐらいこだわりたいのがカカトである。


こちらは7年愛用しているクロケット&ジョーンズの靴。7年モノだが、しっかり手入れをすればナマめかしい艶が生まれる。


こちらは昨年買ったジョンロブである。新しいから綺麗なのは当然だ。これはこれで美しいが、どちらかといえば7年モノのほうがネットリと魅惑的に思える。

まあ、気のせいというか、長く愛用しているヒイキ目がそう感じさせるのかもしれない。

その昔、銀座のオネエサンに見送られた後で「いつもカカトが綺麗ですね」と言われて妙に嬉しかった記憶がある。

見られている意識のない部分を誉められるとアマノジャクな私は舞い上がる。そんなこともあって、靴磨きの際はカカトをやたらと綺麗にする。

かかとのあたりはヒールカップと呼ばれる部分だ。丁寧に作り込まれた靴は、この部分の造りが愛らしい。見た目もコロンと丸くて優しく包まれている気分になる。

しっかり磨き上げた後に、ついついヒールカップの曲線を掌で包むように愛撫しちゃうのが私の隠れたクセである。小ぶりなオッパイみたいで可愛い。

まあ、フェチみたいなものだ。

俗に「男は背中で語る」などと言われるが、腹筋背筋が弱ってきた私の背中はヨレている。その分、後ろ姿は靴のカカトに頑張ってもらおうと思う。

2017年10月20日金曜日

シメのラーメン まかない㐂いち


たかがラーメン、されどラーメン。ニッポンの食文化の一角で独自の世界観?を見せるのがラーメンである。

誰の周りにもラーメンを熱く語る人がいるはずだ。私の友人にもラーメンブログを黙々と更新し続けている変な男がいる。日々、素晴らしい鑑識眼によってラーメンの深淵を徹底解剖すべく奮闘している。誉めすぎか・・。

ラーメンを語るだけだから、文章表現には限界もあるようで、時に脱線しながら涙ぐましい努力を続けている。

http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/archives/1068085724.html

さて、食べることが好きな私だが、昔からラーメンには強いこだわりがない。麺よりコメを愛しているせいだろう。

酔っ払った後のシメにラーメンが頭をよぎっても、結局は牛丼をかっ込む確率のほうが高い。

そうは言っても、汁っぽいものを食べたい時もある。酔った後のラーメンのウマさは、スープを味わうジンワリ感に尽きるような気がする。

酒に疲れた胃袋に染みこむスープこそが「ニッポンの酔っぱらいの明日」を支えている。

当然、ギトギトベトベトの若者向けラーメンは勘弁である。あれは夜が更けた頃にオトナが口にすべきではない。一歩間違えたらゲロ惨事を招く。もともとゲロみたいだし・・・。

すっきりとして滋味溢れるスープこそシメのラーメンの醍醐味だが、出来ることなら「麺は10本ぐらい入れてくれればいいです!」と注文できればデブ化を防げる。まあ、そんな注文をする勇気は私には無い。

先日、とある店でシメのラーメンの鏡のような逸品に出会った。感動した。


銀座の料理屋さんでのこと。その店、元はラーメン屋さんが出店した割烹料理屋さんだとか。店の名前は「まかない㐂いち」。8丁目の雑居ビル内に隠れ家のように構える店だ。

一人でふらっと入るような雰囲気の店かどうか分からなかったため、銀座のベテランオネエサンにメールして取材してみた。

蛇の道は蛇である。お姉さんは何度もその店を使っているとのこと。やはりあの街のことはベテランホステスさんに尋ねるのが手っ取り早い。

結局、リサーチだけでは済まずに、そのオネエサンの同伴出勤に絡めとられて初訪問。まあそれもオジサマとしてのたしなみ、お馴染みさんとしての甲斐性である。

憎い品揃えの店。一言で表現するならそんな感じである。魚介類の鮮度も調理法もバッチリで、オジサマを喜ばす珍味も豊富だ。

肉類のメニューも揃っているし、カニクリームコロッケやメンチカツといったオジサマがムホムホ言うラインナップも用意されていた。


一つから注文できるここのメンチカツ、この数年で一番ウマかった。ウマ味と甘味ジュンワリでちょっとビックリするレベルだった。

で、肝心のシメのラーメンである。さすがに元々はラーメン屋さんが始めた料理屋である。醬油ラーメンと塩ラーメンが用意されていた。

特筆すべきはサイズの自由度である。普通サイズの他に2分の1、そして4分の1まで選べる。4分の1を二つ注文したって普通の半分である。

4分の1サイズを2種類並べたのが上の画像だ。醬油、塩どちらも抜群だった。醤油味は、いにしえの正統派東京ラーメンそのもの。奇をてらったところは無いが、スープのウマ味が強い。後味も爽やかで口の中が幸せになった。

塩味のほうもこれまたウットリだ。塩ラーメンというより正しくは鯛ラーメンである。鯛のダシの滋味がグイグイ押し寄せる。優しい味わいなのにコクが強くパンチが効いている。

「全日本シメのラーメンコンテスト」を開催したら上位入賞間違いなしだと思う。こういう店が雑居ビルの上の方で目立たずに営業しているのが銀座という街の面白さだ。

メニューに値段が書いていない点は銀座的だが、近隣の日本料理屋や寿司屋に比べれば“平和”な御勘定で済む。安くはないが、場所と内容を考えれば驚くほどではない。

ダイエット中(のつもり)の私にとっては地獄の一丁目みたいな店だが、そういう邪念のない人にはパラダイスだろう。

デブは罪。そんな言葉が脳裏をよぎる秋の夜。