2017年10月20日金曜日

シメのラーメン まかない㐂いち


たかがラーメン、されどラーメン。ニッポンの食文化の一角で独自の世界観?を見せるのがラーメンである。

誰の周りにもラーメンを熱く語る人がいるはずだ。私の友人にもラーメンブログを黙々と更新し続けている変な男がいる。日々、素晴らしい鑑識眼によってラーメンの深淵を徹底解剖すべく奮闘している。誉めすぎか・・。

ラーメンを語るだけだから、文章表現には限界もあるようで、時に脱線しながら涙ぐましい努力を続けている。

http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/archives/1068085724.html

さて、食べることが好きな私だが、昔からラーメンには強いこだわりがない。麺よりコメを愛しているせいだろう。

酔っ払った後のシメにラーメンが頭をよぎっても、結局は牛丼をかっ込む確率のほうが高い。

そうは言っても、汁っぽいものを食べたい時もある。酔った後のラーメンのウマさは、スープを味わうジンワリ感に尽きるような気がする。

酒に疲れた胃袋に染みこむスープこそが「ニッポンの酔っぱらいの明日」を支えている。

当然、ギトギトベトベトの若者向けラーメンは勘弁である。あれは夜が更けた頃にオトナが口にすべきではない。一歩間違えたらゲロ惨事を招く。もともとゲロみたいだし・・・。

すっきりとして滋味溢れるスープこそシメのラーメンの醍醐味だが、出来ることなら「麺は10本ぐらい入れてくれればいいです!」と注文できればデブ化を防げる。まあ、そんな注文をする勇気は私には無い。

先日、とある店でシメのラーメンの鏡のような逸品に出会った。感動した。


銀座の料理屋さんでのこと。その店、元はラーメン屋さんが出店した割烹料理屋さんだとか。店の名前は「まかない㐂いち」。8丁目の雑居ビル内に隠れ家のように構える店だ。

一人でふらっと入るような雰囲気の店かどうか分からなかったため、銀座のベテランオネエサンにメールして取材してみた。

蛇の道は蛇である。お姉さんは何度もその店を使っているとのこと。やはりあの街のことはベテランホステスさんに尋ねるのが手っ取り早い。

結局、リサーチだけでは済まずに、そのオネエサンの同伴出勤に絡めとられて初訪問。まあそれもオジサマとしてのたしなみ、お馴染みさんとしての甲斐性である。

憎い品揃えの店。一言で表現するならそんな感じである。魚介類の鮮度も調理法もバッチリで、オジサマを喜ばす珍味も豊富だ。

肉類のメニューも揃っているし、カニクリームコロッケやメンチカツといったオジサマがムホムホ言うラインナップも用意されていた。


一つから注文できるここのメンチカツ、この数年で一番ウマかった。ウマ味と甘味ジュンワリでちょっとビックリするレベルだった。

で、肝心のシメのラーメンである。さすがに元々はラーメン屋さんが始めた料理屋である。醬油ラーメンと塩ラーメンが用意されていた。

特筆すべきはサイズの自由度である。普通サイズの他に2分の1、そして4分の1まで選べる。4分の1を二つ注文したって普通の半分である。

4分の1サイズを2種類並べたのが上の画像だ。醬油、塩どちらも抜群だった。醤油味は、いにしえの正統派東京ラーメンそのもの。奇をてらったところは無いが、スープのウマ味が強い。後味も爽やかで口の中が幸せになった。

塩味のほうもこれまたウットリだ。塩ラーメンというより正しくは鯛ラーメンである。鯛のダシの滋味がグイグイ押し寄せる。優しい味わいなのにコクが強くパンチが効いている。

「全日本シメのラーメンコンテスト」を開催したら上位入賞間違いなしだと思う。こういう店が雑居ビルの上の方で目立たずに営業しているのが銀座という街の面白さだ。

メニューに値段が書いていない点は銀座的だが、近隣の日本料理屋や寿司屋に比べれば“平和”な御勘定で済む。安くはないが、場所と内容を考えれば驚くほどではない。

ダイエット中(のつもり)の私にとっては地獄の一丁目みたいな店だが、そういう邪念のない人にはパラダイスだろう。

デブは罪。そんな言葉が脳裏をよぎる秋の夜。

2017年10月18日水曜日

ライブが近づいてきた


毎年恒例のオジサマバンドのライブが、ちょうど1ヶ月後に迫ってきた。ボーカリストである私としては、そろそろ体調管理を意識しないといけない。

年に1度のライブ活動だが、今年は6回目である。いっぱしのキャリアだ。

毎年100人以上のお客様を前に、スポットライトを当ててもらってミュージシャンのようなノリで奮闘している。


いっぱしの顔をして歌ったりしゃべったりしているが、何回やってもド緊張状態は変わらない。

緊張していないフリをすることは上手くなったと思う。でも毎回、開演寸前は頭の中は真っ白である。

10月中旬からスタジオ練習が始まった。春や夏の頃はカラオケボックスにギターを持ち込み、アーだコーだと楽しく練習していたが、スタジオ練習の段階に入ると、割とシビアな感じになってくる。

楽器をアンプにつないで、マイクも使ってスピーカーを通して練習の成果を確認すると、途端にアセり始めるのが毎年のパターンだ。

生歌練習で気付かなかった課題がワンサカ出てくる。本番も近いし、おちゃらけてばかりもいられない。真剣モードに移行するタイミングである。

当然のことだが、毎年毎年、違った課題にぶつかる。去年は英語の発音という想定外の課題があった。

ロネッツの「Be My Baby」とビートルズの「Nowhere Man」を演目に取り入れたのだが、歌詞に出てくる「three」の「ス」、「fifth」の「ス」の発音をそれっぽくするために苦戦した。唇の筋肉がつりそうになった。

今年の演目には英語曲は無いので余裕をカマしていたが、某日本語曲の中に出てくる「bomber」の発音が私を悩ませている。

練習中、気分良く歌っていたらメンバーからもダメ出しを食らった。「ボンバーじゃない、“ボァワゥンボァ”だろ、ボケ!」である。

より分かりやすくするために、ネットでたまたま見つけた「デュープラー英語学院」さんという松戸の英会話教室のサイトに載っていた解説を部分的に転載させてもらう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「bomber」は、もともと「bomb」という言葉に接尾辞「-er」がついた言葉です。

「bomb」は「爆弾」という意味で、これの発音記号は[bάm]となります。

カタカナで書くなら「ボァム」という感じです。

最後のスペル「b」は発音されない「黙字」ですので、最後は「m」の音で終わります。

「ボァ」の部分は、「バ」のようでありながら、結局は「ボ」に聞こえるような音、つまり「ボ」と「バ」が合わさった音です。

少し長めに「ボァ」と言えば、まあ近い音になるでしょう。

カタカナで書くならば「ボォマァ」という感じです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ということである。「ボォマァ」である。オイオイって感じだ。どうやったら上手に発音できるのだろう。困った困った。

まあ、そんな細かいことに悩んでもしょうがない。もっと大事な課題は山ほどある。

一番大事な課題は「しゃべり過ぎないこと」である。MC担当として毎年頑張ってきたが、昨年は自分でも反省するほど話が長すぎた。いろいろ理由はあったのだが、そこは割愛。


で、購入したのがこれだ。「チ~ン」と鳴らすヤツである。

ステージ上にこれを置き、私の語りが長くなったら鳴らしてもらう。我ながら素晴らしい秘密兵器に気付いたものである。

バンドのライブ告知の話が「ボンバー問題」と「卓上ベル」だけで終わりそうだ。それはそれでマズい。

今年は私が作詞したオリジナル曲も2曲披露する。ひとつは亜熱帯のリゾート地を舞台にした禁断の愛の歌!である。ピアノアレンジのイントロが官能的に仕上がってきた。

もう1曲は今年の初めに急逝した友人の追悼曲だ。2曲とも作曲してくれたメンバーが詩のイメージを見事にメロディーに載せてくれた。

別なメンバーがサビの部分のハモり部分をいい感じにアレンジしてくれたので、なかなか雰囲気のある楽曲に仕上がった。

日程は11月18日、会場は南青山のライブハウスである。

「ヒマだから富豪記者が歌う姿でも見にいくか」という奇特なかたがいらっしゃったらコメント欄からお知らせください。ご記載内容はここにはアップしませんのでお気軽にどうそ!


2017年10月16日月曜日

なんとなく10年


このブログを始めたのは2007年の10月17日。すなわち今日で10年が過ぎたわけだ。我ながらビックリである。

いつも覗きに来てくださる皆様に感謝します。

https://fugoh-kisya.blogspot.jp/2007/10/blog-post.html

10年ひと昔である。いや、今の時代の速度感からすれば二昔ぐらいの感じもする。でも、書いている内容は、40代そこそこだった当初の頃とたいして変わらない。

進歩がないのか、はたまた成熟が進んでいるのか、とりあえず後者だと思いたい。

「富豪になりたい」と宣言してから10年。いまだにロールスロイスに乗っていないし、プライベートジェットも持っていない。

宝くじもちっとも当たらない。ついでにいえば本宅と妾宅を右往左往するほどアチコチに住まいがあるわけでもない

10年の間で大きな変化と言えば生活環境ぐらいか。気付けば何度目かの独身生活である。10年前より勝手気ままに過ごしている。

考えてみれば、40を過ぎた男が10年ぐらいで急に成長するはずもない。知識もこの10年で爆発的に増えることはなかった。

10年どころか、20年前ともたいして変わっていないかもしれない。人間、30歳にもなれば自己確立は済んでいる。

視野の広さ、感情のコントロールみたいなことは20年前より多少は進歩している。もがいてばかりだった若者時代とは違う。

もがくことを忘れた代わりに、運命とか必然という言葉を使う頻度が増えた。

「まあそんなもんだ」「なんとかなる」「なるようにしかならない」。そういった感覚が以前よりも強まっている。

粘ったり、踏ん張ったり、死ぬほど頑張るような「力み」も大事だが、中高年特有の「ユルさ」が身についてくると、いろいろな面で楽になる。

ウザったい話になるのもイヤなので、ヘンテコな例えで表してみる。女性を口説くときの姿勢も以前とは変わってきた。

断られたらカッコ悪い、下心は隠していたい等々、若い頃は自意識過剰気味に自分の行動にブレーキをかけていた。

今の私は大違いである。フラれちゃうのも気にしないし、下心なんて明けっ広げに見せちゃう。ヘンテコな趣味も平気で押しつける。

回りくどい駆け引きを仕掛けられてもスルーするようになった。去る者は追わず、来る者拒まず、単刀直入、直球勝負である。

まあ、女性問題はさておき、見方を変えればすべての面でワガママが加速しているのだろう。我慢が足りないという言い方も出来る。

でも、いまさら無意味な我慢などしたくない。根拠が曖昧な社会規範に漫然と縛られていたら、退屈なまま人生が終わっちゃう。

一応、いまだってアレコレと痩せ我慢することはある。最低限の我慢はするが、必要のない我慢に対して昔より抵抗感が強くなった感じだ。

なんだか、ストレスがたまった偏屈オヤジみたいな書きぶりになってしまった。軌道修正。

時々、このブログの解析ページを覗くのだが、今日書いているような“自省録”みたいな内容は視聴率?が低い。

閲覧数が多いテーマは「靴」と「銀座」が圧倒的で、続いて「下ネタ系」「旅行」「ダウン症」あたりである。

割り切って靴と銀座と下ネタ話ばかりに絞れば閲覧数が飛躍的に上がるのだろう。

まあ、私にとってこのブログは備忘録や日記に近い感覚だから、“フォロワー数”よりも大きな課題がある。すなわち、書くネタが無くならないかという問題である。

なんだかんだ書くことがあるから10年も続いてきたわけだ。これって実に幸せなことだと思う。

それなりにトピックスというか、日常に起伏のようなものがあるから雑文をダラダラと書くことが出来る。

何も無い時でも強引にネタっぽく仕上げちゃうこともあるが、それはそれ。基本的には小さなことでもトピックスがあるから成り立っている。

これは有難いことだ。健康で仕事があって、トラブルもなく生きている証である。

ウマいものを食べた、こんな楽しいことがあった等々、能天気に書き殴れることは幸せなことだ。

いま世の中では、引きこもり独居老人が社会問題化している。おそらく日常に起伏のようなものが無くなっている状態だ。とても恐いことだと思う。

私自身、いつかはそんな日が来るかもしれないが、現状ではバリバリに元気である。

これからもちょっとしたトピックスを見逃さないようにアンテナ感度を高めて過ごしていきたい。

ここに書けないようないろエロな怪しい話ばかりが貯まらないように、日々、ちゃんとしようと思う。

2017年10月13日金曜日

おばさん力


鈍感力、老人力などの「ナントカ力」という言葉の使い方がハヤっているが、最近つくづく思うのが「おばさん力」の底知れぬ恐ろしさ!である。

選挙戦だって小池さんの「おばさん力」が話題の中心になって、一時期は国の在り方さえ左右する勢いをみせた。

おばさんの定義は曖昧なので、ここでは私と同世代、すなわち50歳前後から上の年齢の女性を「おばさん力」の源に位置付けてみる。

そもそも、おじさん、おばさんという言葉には少なからず蔑称的意味合いがあるが、イマドキはそんな悠長なことは言っていられない。

男達が上から目線で、おばさん云々を語る一方で、おばさん達は独自の世界を構築して、事実上、社会の支配者!として君臨している。

松居一代しかり。少し若いが、豊田真由子、山尾志桜里の両センセイもそうだ。世間からどれだけバッシングを浴びようともヘッチャラだ。

バッシングを浴びる原因になった行動が「おばさん力」そのものである。猪突猛進というか、恥も外聞もなく感情で突っ走るエネルギーが物凄い。

世の男性達は、おばさんをディスっている暇があったら尊敬しちゃった方が賢明である。

昔からさまざまな事件、スキャンダルの影で関係者が自ら命を絶つ事例は数多いが、そんな選択をするのがたいていは男である。

統計的にも男性自殺者数は女性の2・5倍だとか。7対3の割合である。男が弱いのか、女性が強いのか、議論するまでもない。

まあ、男なんて突き詰めれば全員が全員、例外なく女性から産まれたわけだから、エバってみたところで勝ち目はない。

オジサンはオバサンに勝てない。大人の男達は、この事実を冷静に受け止めないと平和はない。

無理に頑張ったところで、私のように家庭生活からFA宣言するか、もしくは戦力外通告されるだけである。

その昔、法律問題が絡む揉め事に関わったことがある。こっちは仕事柄、商法だの民法だのを背景に論理的に話をしたいのだが、相手は「おばさん力」の塊みたいな人だったので難儀した。

難儀というか、まったく話が噛み合わない。こっちの話は最初から聞く気が無い。感情的に自分の思いや要求をぶちまけるだけ。駆け引きの要素すらない。

同じ時代に同じ国で同じ言語を使っている人だとは思えないほどズレまくる。いや、ズレではない。ただの空回りだった。

宇宙人とやり取りしている感覚だった。そりゃあ宇宙人と闘ったって勝てるわけはない。やはり、おばさんは味方に付けたほうがいい。そのほうが安眠できる。

一般的におばさんは、積極的である。行動力もある。恥ずかしいという概念が希薄だ。

なんでも前向き。でも自分のペースを崩さない。クヨクヨしないし、メンタルが強い。強いを通り越してたくましい。

若い女性と違ってヘタな媚びをうらない。妙な余裕がある。ついでにいうと世話好きで雑談という必殺技を得意とする。

雑談だって、一方的に持論を展開するのが基本だ。相手の話にはとりあえず否定から入るか、淡々と聞き流すかのどちらかである。

さすがである。男より寿命が10年ぐらい長いのも理解できる。

アレコレ書いているが、これは決して悪口ではない。真面目な話、私も時々おばさんになりたいと本気で思う。

一応、私は今の自分が若い頃の自分よりも好きである。生まれ変わるとしたら「オジサマ」になりたいのだが、それがダメなら「おばさん」に生まれ変わりたいと思う。

意味不明でスイマセン。

同窓会シンドロームみたいに中高年になってから、同年代の男女が恋愛に走るケースは多い。同年代ならではの安心感、同時代の共有感みたいな点で惹かれ合うようだ。

その感覚は分からなくないが、私個人としては「おばさん力」にたじろいで、ついビクビクしてしまう。

年の離れた女性が相手なら、こっちがオトナの余裕を演出して手玉に取ることも可能だ。でも、おばさん力を前にしたら私の演出や策略などは通用しない。コッパミジンだ。

おばさん力を前にするとヘビに睨まれたカエル状態になっちゃうのが、私の悲しい現実である。

私が若い女性のお尻を追いかけ回すのも、きっとそれが原因だろう。

2017年10月11日水曜日

ウマいもの ズラしたもの

道端でこんな看板を見るとザワザワする。「喫茶店のナポリタン」「ホテルの味のオムライス」。文字が目に入っただけでヨダレが出ちゃう。

喫茶店のナポリタン、喫茶店のタマゴサンド、喫茶店のクリームソーダ等々、昭和の人間としては「喫茶店の~~」と言われるだけで郷愁を感じる。

ベタな食べ物というジャンルにおいて「喫茶店ナポリタン」は象徴的な存在だ。あれは純然たる日本食である。高度成長期の日本食だ。

パスタという呼び方も浸透していなかった時代である。ましてやアルデンテなんて言葉は誰も聞いたことがなかった頃のスターがナポリタンだった。

オジサマになった今も時々、洋食レストランでナポリタンを注文するのだが、たいていはダメだ。理由は「ちゃんとしている」からである。

ちゃんとしていないのが昭和のナポリタンだろう。油っぽかったし、包丁を中途半端に入れるからタマネギが切れずにくっついていたり、麺だっていつ茹でたか分からないようなシロモノだった。

でも妙にウマかった。思い出すだけでウットリする。


こちらはハムカツ。ハムカツも昭和の香りがするベタな食べ物である。居酒屋でメニューにあればつい注文したくなる。

最近は画像のようなダメなハムカツが多い。ダメな理由は「ハムが薄くない」ことである。

ハムカツのハムは主役を気取ってはいけない。あくまでコロモとどっこいどっこいの存在であるべき。昭和の男達はソースをまとったコロモの部分にウキウキした。

ナポリタンがアルデンテになって、ハムカツのハムが厚くなったことは、この国の成熟ぶりを象徴する話だ。まさに昭和は遠くなりにけりって感じだ。


話は変わる。こちらは最近、一部で人気を集めている肉寿司なる食べ物である。これは神楽坂のその名も「肉寿司」という店での一コマ。

生肉がご飯の上に載っていることが古い世代の私には違和感がある。生肉とコメがくっつくことが何となくブキミに思える。

仕方なく、牛タンの茹でたヤツとかモツ煮などをもらってグビグビ飲む。同行者は肉寿司をやたらと気にいってドカドカ食べていた。美味しかったらしい。


世代間ギャップなんだと思う。流通事情が様変わりした今は昔より生肉食いが珍しくない。時々死亡事故も起きたりするが、激安店とかじゃなきゃそんな話も聞かない。

でも、個人的には肉は火を入れてこそウマいと思う。ユッケは好きだが、あれだってしょせんはタレの味を楽しむものだろう。

そんなことばかり言ってると、ますます時代遅れになりそうだ。まあ、世の中には他にウマいものは山ほどあるから、生肉は遠慮しておこう。


こちらはウニの握り。ちょっとズラした感じのウニの握りである。銀座の「さ久ら」で食べた。

赤酢のシャリを炙って焼きおにぎりみたいにして、そこにウニである。香ばしくなったシャリとクリーミーなウニが混ざり合って実にハッピーな一品に変身していた。

こういうズラしかたは大歓迎である。

お次は、やはりお寿司屋さんで食べたもう少しズラしたウマいもの。


ホッキ貝のリゾット風である。ベースが酢飯だからこその独特な風味が抜群だった。目白の「鮨おざき」で作ってもらった。

トリュフまで散らしまくってある。邪道といえば邪道、大邪道である。でも、スンゴく美味しいから大いにアリだろう。

さっき書いた肉寿司も一種の「ズラし」だろう。寿司なんだけど肉だけというパターンが意外性という意味でウケているわけだ。

ちょっとズラしたところに未知の美味しさが隠れている。何だか気取った書きぶりだが、そんな印象を強くする日々である。

2017年10月6日金曜日

パパは最高なのか


「タバコをやめるか、痩せるか、どっちかにして」。

最愛の娘に言われた。非常事態である。

まあ、その要求に応えなかったら嫌われるとか、ウチに遊びに来なくなるとかのペナルティーは無い。

ということはスルーしちゃっても問題はない。でも、純情パパである私としては応えてあげたい気持ちもちょっぴりある。

タバコをやめるのは論外なので、選ぶなら痩せるほうである。ラッキーなことに目標値の設定の無い話である。お腹が引っ込めばいいというレベルだ。

「横から見たときにお腹がポコっと出ている点を除けば、パパは最高よ」。高校生の娘はそう言った。

よく考えれば、これって褒め言葉ではないだろうか。親バカの私は単純にそう思う。

「パパは最高よ」。この部分だけが私の頭の中でリフレインする。

お腹が出ていることは、髪が黒い、指が長い、まつ毛が長い、眉毛が太いなどと同様に持って生まれた体質である。

違うか・・・。

8年前の今頃、割と真面目にダイエットをしていた。この時は12キロぐらい落とした。ストイックに頑張るのがシャクだから、運動は散歩ぐらいでカニばかり食べて痩せた記憶がある。

その時の奮闘記録がこちら。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/blog-post.html

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/2.html

20代の頃は、10日で10キロぐらい落としたこともある。あの頃はストイックなボクサーみたいな過酷な減量作戦ができたが、今あんなことをやると間違いなく死んじゃう。

だいたい、今の私は代謝機能が退化してしまった。息を吸っているだけで太る。深呼吸ばかりしたら巨デブになってしまう。

さて、どうしたもんだろう。まあ、3~4キロ落とせば、「ポコッ」とした腹が「ポッ」ぐらいにはなりそうだから、少しは前向きに挑もうかと思っている。

娘には「心の準備をする期間が1年ぐらいは必要だ」と諭してある。そのうち「ポッコリお腹のパパが大好き」などと言い出す可能性だってある。

何だかんだ言って、数年前に作ったスーツの腹回りが少しキツくなっているのも確かだから「微調整」は必要である。

ダイエットと意気込むとストレスになっちゃうから「微調整」というニュアンスで努力しよう。

そんな程度ではちっとも努力とは呼べないが、酔っ払った後の牛丼やペヤングをやめることは今の私には努力である。

本気でダイエットをした当時は、カニだけでなく、塩気の強い珍味類を肴にして強い酒をひっかけて酔って寝るのを基本スタイルにしていた。

そのせいで、当時は尿酸値が常に高値安定状態で、医者からは痛風発作が起きていないことを不思議がられた。

今の尿酸値は余裕で基準値内である。体重をそれなりに落とすためには、現在の素晴らしい健康状態を放棄する覚悟が必要である。

そういえば、カニと珍味の他には鶏肉も強力な味方だった。ササミをいろいろアレンジして空腹感を満たしていたことを思い出した。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/10/blog-post_15.html

よしよし、昔のブログを読み返すことで当時の「志」が少しだけ甦ってきた。

でも、今は食欲の秋である。ウナギもウホウホ食べたいし、“タンスイカブラー”、“コレステローラー”としての生きざまを捨てるのも辛い。

ウジウジとどっちつかずのことを書き殴るシャバダバな自分がイヤになる。

目を閉じて冷静に短期未来予想をしてみた。

2キロぐらい落として四の五の屁理屈をホザいてウヤムヤにしている自分の姿が見えた。

明智光秀を気取って「敵は煩悩にあり!」と叫びたくなる。

2017年10月4日水曜日

ホテル 本音と建前


東京には五つ星ホテルが絶対的に足りない。以前、何かで読んだ話の受け売りだが、外国人観光客誘致の盲点になっているそうだ。

日本を訪れる外国人旅行者は激増中。国が音頭を取った観光立国宣言は順調に推移している。

ただ、バックパッカーや安い民泊を泊まり歩くような観光客が中心層では、お金を落としてもらうという点では厳しいのが現実だ。

東京の繁華街を見回しても、世界に冠たる経済大国の割には確かに高級ホテルが少ない。実際に五つ星ホテルはメキシコの3割、タイの4分の1しか無いそうだ。


いわれてみれば、タイのバンコクなど観光で人気の国の首都に行けば豪華ホテルが乱立している。競争原理が働いて格安で泊まれるし、ホテル選びも旅の楽しみになっている。

日本で高級ホテルを選ぶ外国人旅行者は、間違いなく落としてくれるおカネもバックパッカーとはケタ違いだろう。

富裕層ひとりで倹約指向の若者10~20人分の消費をしてくれるなら観光収入という点では効率的。そういう階層を呼び込む努力は必要だ。

秋の京都では、五つ星クラスのホテルが予約できないという理由だけで旅行自体をあきらめるアッパー層も少なくないという。みすみすインバウンド消費を逃してしまうわけだ。

中長期的に考えたら国策レベルで対策を考えた方がいいと思う。

さて、都心部の高級ホテルといえば帝国ホテルを筆頭にいくつかがパッと頭に浮かぶ。でも、パッと浮かぶ程度にしか数が無いのも事実だろう。


東京に住んでいる私は都会の高級ホテルに泊まる機会は少ない。それでも待ち合わせに使ったり、お茶や食事に行ったり、時には、諸々の事情?で部屋を取ったりする。

経済大国の1300万都市という視点で考えれば、確かに選択肢は少ない。エセ富豪?の私がそう感じるのだから海外のマトモなお金持ちから見れば、実に寒々しい状況だと思う。

日本人的感覚で一流と思われているホテルでも、ヘタをすると部屋の冷蔵庫に無料のミネラルウォーターが2本だけとか、海外の高級ホテルから見れば二線級のレベルだと思う。


まっとうな高級ホテルならバスタブの他にシャワーブースもあって、それなりに快適に過ごせる。でも、圧倒的多数派の中途半端なシティホテルは、客目線での快適さなど二の次。

シャワーを浴びるにしても狭いバスタブの中でカーテン引っ張って窮屈な姿勢を強いられる。一応、ビジネスホテルとは違う高級シティホテルを名乗る以上は数段階上の進化が必要だと思う。

以前、某都市で泊まったその街有数の高級ホテルのレベルの低さに驚いたことがある。日本の航空会社直営のホテルである。要は二つのうちの一つだ。

客の荷物は運ばない、ルームサービスはやっていない。それでは半値以下で泊まれるビジネスホテルと同じである。

それでもトップクラスの高級ホテルのような顔をしているのだから、ある意味、日本のお寒いホテル事情を垣間見た気がした。

大浴場付のビジネスホテルが人気を集めるのも当然の話。中途半端なシティホテルとやらに泊まるなら屋上に露天風呂があるような大浴場付ビジネスホテルのほうがマシだ。

「本音と建前」みたいな感覚で無理やり名前ばかりのシティホテルを選ぶのは不自然な話だと思う。

まあ、そう言ってしまうと、快適なビジネスホテルよりももっと居心地がいいラブホテル推奨論についつい発展しちゃう。

滅多に行くわけではないが、高級路線のラブホテルの快適さにはビックリする。イメージや心理的なことを取っ払って純粋に占有空間の快適さだけだったら名だたる高級ホテルよりも優秀かもしれない。

数々のサービスが有るだけでなく、ジャグジーはもちろん、サウナや露天風呂まであって唖然とする。

まあ、ホテルなんてものはイメージや心理的な要素が居心地に影響するから、あくまで「ラブホテルにいる」という現実が気になっちゃう人にはダメだろう。

有名人や野球選手だったらラブホテルを使っただけでディスられまくるが、そういう恐れがない一般人は堂々と使えばいいと思う。今更ながら「二岡選手」がチョット気の毒である。

「本音と建前」が厄介なことはイマドキのラブホテルの快適さが世間で大々的に話題にならないことが端的に表しているのかもしれない。

なんだかラブホ論を熱く語ってしまった・・・。まあ、いいか。

あくまでラブホテル的な見せ方をせずにビジネスホテルの延長線上のような位置付けを装って、システムや設備は高級ラブホ並みという新ジャンルのホテルが出てきたらウケると思う。

なんだか話が大幅にそれてしまった。


今日の主題は、東京に五つ星ホテルがもっともっと増えて欲しいという話である。都心にあと20カ所ぐらいそういうクラスのホテルが登場したら凄く面白いと思う。

サービス面だけでなく、価格面でも競争になるだろうから消費者側には良い話である。まあ、一朝一夕には無理だ。私が生きている間に実現するのは難しいと思う。

2017年10月2日月曜日

選挙と未来予想


今日はちょっぴり硬い話。

さすがに選挙戦に向けた動きが気になる。面白がってはいけないのかもしれないが、今回のスッタモンダは歴史的な“面白さ”かもしれない。議員になりたい面々の右往左往ぶりは面白いというか、みっともないと表現する方が適当か。

かつて、老獪な自民党は社会党と連立を組み、村山政権を誕生させた。社会主義者を首相に担ぐというウルトラCは、社会党の矛盾を浮き彫りにさせて、結果的に社会党自体が消滅するというオチにつながった。

今回の「民進党消滅」も同じようなものだろう。バリバリの保守という意味で自民党系ともいえる小池都知事の戦略によって民進党は一瞬にして消えた。

だいたい、前原代表の打ち出した突然の合流案が、排除の論理で進むのが当たり前なのに、たいした紛糾もせずに「吸収」を満場一致で決めちゃうあたりが民進党の実像。

存在意義がとっくに無くなっていた証だし、安倍政権が野党をナメきって解散総選挙に打って出たくなったのも当然のお粗末野党だったわけだ。

それにしても、小池さんも前原さんも、はたまたその背後で動いた小沢さんも、ある意味で物凄い政治家だと思う。

希望の党が何をしたいのかサッパリ分からないし、「寛容な保守」とかいう旗印も薄っぺらい印象しか無い。それでも、これだけの「旋風」を巻き起こしている事実は驚きだ。

好き嫌いの問題はさておき、策士として大したもんだと素直に思う。一気に自民党の安定支配が怪しくなったわけだからメガトン級の仕掛けであることは間違いない。

さて、選挙の行方はどうなのだろう。今の時点では自公政権の過半数割れは無いとも思えるが、メディアの煽りも勢いがついてきたし、今後の仕掛けでは7月の都議選のような雪崩現象は充分に起こりえる。

いろいろな予想が乱れ飛んでいるが、結局は自公も希望の党も過半数には届かないという結果が現実的かもしれない。

その場合、憲法改正に突っ走る目的で、自公プラス希望の大政翼賛会みたいな大連立政権が生まれるか、第三極がキャスティングボートを握って、どちらかと組む連立政権が生まれることになる。

希望の党に入れてもらえなかったリベラルや左派と呼ばれる面々は、新党(絶望の党?)を作るから、人数次第では政権運営のカギを握る存在になっちゃうかもしれない。まあ、そこの顔ぶれからすると、多数の当選者は生まれるはずもないが…。

はたまた、行き場を失ったリベラル票の受け皿になった共産党が結構な議席を確保して、リベラル新党と連携してキャスティングボートを握っちゃうという驚きの事態も起きるかもしれない。

“志位首相”だったらオッタマゲだが、そんなことになったら北朝鮮やトランプさん相手に何を言い出すのだろう。。。

まあ、さすがにそんな悪ふざけみたいな話は無いにしろ、今回の選挙戦はかつてなく予測が難しいのは確かだ。

今週いっぱいの情勢分析で勝ち戦が見込めたら、総理になりたいだけの小池都知事は出馬を宣言する。今はもったい付けているというより、野党党首になるぐらいなら都知事のほうが権力者でいられるから出馬を明言していないだけだろう。

小池さんの出馬で更に追い風が吹いても、たとえば北朝鮮が日本の近くにミサイルを撃ち込むような不測の事態が起きれば風向きは大きく変わる。

緊迫した事態になれば有権者の意識は政権の継続性を求めるから、現政権サイドがそんな想定に活路を見出したいというのも本音だ。

選挙戦突入を前に、それぞれがお互いのスキャンダル探しに躍起になっている。でも、今回はスキャンダルよりそれぞれの演出力が勝敗のカギを握る。

現政権側は、有事対応や外交など継続性の重要さを前面に打ち出す。新勢力サイドは一強支配政治の傲慢ぶりを突き、目新しさに飛びつく大衆心理に向けて新鮮さをアピールする。

選ぶのは有権者個人だが、結果こそが民意という形で確定してしまうわけだから、慎重な投票を心がけたいものだ。

いずれにしても、選挙の結果生まれる新政権が安定多数を確保することは難しい。もしかすると、政権運営の不安定が原因で早い段階で再度の解散総選挙も考えられる。

ヘタをすると割とすぐにそんな事態になるかもしれない。その場合、再来年10月から10%税率に移行する消費税が争点になって、税率引上げ中止を訴えた政党が勝利する可能性も強まる。

結果、消費税率はいつまでも据え置きで、財政赤字は拡大、オリンピック後の景気低迷も追い打ちを掛ける形になって、わが国の財政状況がメロメロになるというオッソろしい事態が見えてくる。

そうなって欲しくはないが、どうにも危なっかしい。どっちに転んでもポピュリズムが招くのは未来へのツケでしかない。

2017年9月29日金曜日

男が靴を磨くとき


「ドキュメント72時間」というテレビ番組がある。NHKならではの深みのある内容が結構好きでよく観ている。

毎回テーマの異なる場所を選び、3日間、定点観測のようにそこに集う人々の人間ドラマを取材している。

先日は有楽町にある靴磨きコーナーにスポットを当て、お客さん達からいろいろな話を引き出していた。

タイトルは「男が靴を磨くとき」。明日の土曜午前中に再放送されるので興味があればご覧いただくことをオススメする。

その靴の思い出を語る人や大事な商談の直前に訪ねてきた人、自分への褒美に新調した靴を真っ先に磨きに来た人など、靴と靴を綺麗にすることの人間模様が面白かった。

靴がピカピカになったお客さんの顔が印象的だった。どこか明るく爽快な感じに見える。まさにこれが靴磨きの効能かもしれない。


涼しくなってきたから私も靴磨きに精を出そうと思っている。靴磨きを始めるとつい必死になって汗だくヘトヘトになるので夏はついついサボりがちだ。

靴を一生懸命磨いている時は、ただ無心に「磨く」という作業に没頭する。もちろん、ピカピカの靴を人様に誉められたいとか、ピカピカの靴でどこそこに出かけたいとか、それなりに邪念はある。

でも、靴磨きに集中している時は、ただただ黙々とコスったりグリグリしながら靴と無心に向き合う。精神性が高まるような感じがする。ちょっと大げさか。

土をこねてロクロを回す感覚に似ているかもしれない。やったことないけど・・・。

そして、綺麗に磨き上げた靴を履いた時の気分は、新品の靴に足を入れた時とはまったく違うワクワク感がある。当然気分もアガる。

靴は文字通り「革」が「化」けると書く。化粧した女性だって、その化粧を手直ししたり、微調整しないと化けの皮がはがれる。

それと同じで靴もマメな手入れが必要だ。きちんと手入れしてこそ輝きを増す。

先日は深夜まで二軍、三軍扱いの靴を中心に靴磨きに奮闘した。ここ数年、やたらと靴が増えてしまったのだが、自ずと優先順位や好みの度合いは異なる。

いまひとつ気に入らない靴やヘタれかけてきた靴が二軍三軍扱いになる。雨の日専用だったり、予定も無くダラダラした気分の日に履くことになる。

二軍、三軍といいながら、そういう靴のほうが実際の出番は多い。一軍の靴より頻度は多いかもしれない。タフに働かせてしまっているお詫びを込めて必死に磨いた。上の画像は二軍暮らしの「サントーニ」、下の画像は長く一軍をキープしている「タニノ・クリスチー」である。


不思議なもので、二軍三軍の靴のほうが丹念に磨き込みたくなる。贖罪意識のような感覚もあるが、それ以前に段違いに綺麗になっていく様子が実に楽しい。

常に綺麗な状態を保っている一軍靴に比べると、二軍三軍の靴達は手入れする頻度も少ない。日常のカラ拭きもあまりやらないから、いったん磨き始めると変貌ぶりが凄い。

まるで別モノのように変わる。いつも綺麗にしている女性がオシャレをしても印象は変わらないが、ズボラな感じの女性が突如お洒落して変貌する感じとでも言おうか。

ついでに靴のダメージの勉強にもなる。二軍三軍扱いの場合、気を使わず乱暴に履き込んでいるから、傷つきやすい部分や革のヘタれやすい部分などが一目瞭然である。

履き込んでいるから足には充分に馴染んでいる。それが一気にピカピカに変貌するわけだから何とも言えない気分になる。

古女房が突然美しくなって、見ているこっちが照れちゃうような感じだろうか。そんな経験は無いのでよく分からないが・・・。

ピカピカになると、二軍三軍と呼んでいたことを反省する。綺麗に変身してくれた“相棒”を改めて眺めては、日頃冷たい態度で接してきたことを心の中で詫び、「スーパーサブ」と呼び始める。

そして、一軍靴にも負けないようにアゲアゲ気分で履くことが増える。こうなると慣れ親しんでいるだけに「絆」のような感覚さえ生まれる。

でも、心のどこかで「お前は二軍だろ?」という差別意識を持ってしまう私は、新たな一軍靴を入手したりすると、それを機に再びスーパーサブの手入れをサボりだす。

輝きを失ってしまえば、せっかく浮上したヤツも元の二軍三軍扱いに一気に降格してしまう。まさに固定された身分制度のようである。

わが家の靴カーストを是正するには私が新しい靴を買わないことしか対抗策はないみたいだ。

2017年9月27日水曜日

豪華じゃないけど


インスタ映え現象のような「見栄えが良くて豪華なもの」をアピールする風潮の向こうを張って、今日は「豪華じゃないけどウマいもの」を語ろうと思う。


ハムライスである。名前も見た目もそのまんまである。実に潔い。

ご飯モノの主力級メニューと言えば、チキンライスにエビピラフ、カニチャーハン等々、具材の存在感がその一皿の“権威”を決定する。

フカヒレチャーハンなどと言われると、ハハァ~とひれ伏すような印象がある。具材は大きなポイントだ。

そんな世界観の中で燦然と輝く孤高の存在が「ハムライス」である。

特別なハムでも何でもなく、ただのハムである。“具材ヒエラルキー”へのアンチテーゼのようだ。

銀座の洋食の老舗「煉瓦亭」の一品。いつもオムライスやエビライス、ハヤシライスなどを選んでしまい、私にとって優先順位上位になることのないメニューである。

でもこれがウマい。ハムの他には大きめのザク切りタマネギが味のアクセント。塩味というかコンソメ味というか、ハムを引き立たせる優しい味わいだ。

クリームコロッケやカツレツあたりをおかずにハムライスを主食にするのが正しい食べ方だと思う。

何の変哲もないのにウマい。今風の表現で言うならば「じわじわ来る」感じである。


お次は上海焼きそばである。それなりの中華レストランに行くと焼きそばメニューもいろいろだ。五目に海鮮などやはり具材の豪華さが目を引く。

それに比べて上海焼きそばはシンプルである。どうだっ!とばかりに具材を乗せて麺が見えないような焼きそばとは一線を画す。

麺中心の潔さが素敵だ。この写真は都内各地に展開する「維新號」の上海焼きそばだ。本場中国のものは麺がもっと太めらしいが、こちらは細麺。

少し甘味のある中華醬油が味のベースだろう。麺そのものの美味しさがストレートに伝わる。炭水化物バンザイと叫びたくなる。

恵比寿のウェスティンホテルにある中華の名店「龍天門」でも似たような焼きそばに感激したことがある。何を食べてウマい店だが、一番印象に残ったのがシンプルな焼きそばだった。

ゴテゴテと具材がエバっている焼きそばが中華料理店では定番だ。それはそれで美味しいし、見た目も楽しい。そういうラインナップを揃えている店であえてシンプルな上海焼きそばを頼むと、お店の底力を感じられる気がする。



続いては「おぼろ」である。日本料理の世界における脇役だ。白身魚や海老をすりつぶして煮て作るアレだ。

市販のおぼろは甘ったるくて人工的な味がするが、ちゃんとしたお寿司屋さんが手作りするおぼろは一味も二味も三味も違う。

これは目白にある「鮨おざき」で食べた“おぼろ巻き”である。私が得意とする?邪道系の注文である。

普通は茹でエビやカスゴ、コハダなどの握りにまぶす役割だが、おぼろ単体を味見させてもらったら美味しかったので、おぼろだけで巻きものを作ってもらった。

ほんのり甘いからデザートみたいなものである。お寿司屋さんでの最後のシメに甘い卵焼きをシャリ付きで食べることが多い私としては、「シャリ+甘味」には目がない。

正直に言えば、子供っぽい味かもしれない。カンピョウと一緒に巻いてもらった方が間違いない。でも、デザート代わりにもコメが食べたい私にとってはウマウマである。

いずれにせよ、派手さはなく地味だけど凄くウマいものはたくさんある。

ごく普通の見た目なのに妙に美味しいシュウマイとか、ただの缶詰なのに妙にウマいツナ、平凡な見た目なのに妙にウマいゴマせんべいなど例をあげたらキリがない。

ちなみに、究極の「地味ウマ」は誰にとっても母親に握ってもらったおにぎりかもしれない。

私も時々、子供時代に母親が作ってくれたおにぎりを思い出す。タラコや昆布の他に、挽き肉と塩コショウで作った炒めご飯のおにぎりが抜群に美味しかった。

まさに「おふくろの味」である。お盆の季節や墓参りに行くといつも懐かしく思い出す。

いかんいかん、こんなことを書くとまだバリバリ元気な母親にぶっ飛ばされそうだから、この辺にしておく。

2017年9月25日月曜日

秋とヘルス


さてさて秋である。何となく爽やかで清々しい気分だ。

つい先日、夏の終わりの寂寥感についてシンミリ語ったくせに、もう秋を楽しんでいる。

そんなものだ。


サンマの塩焼きに生のイクラである。「ザ・ニッポンの秋」である。

セミの声や風鈴の音色が聞こえなくなって寂しくなっても、この国にはサンマとイクラが待っている。

スイカやかき氷、焼けるような陽射しが過ぎ去っても、この国では「松茸の土瓶蒸し」も待っている。

さすがだ!秋。


私の生まれた季節は秋だ。子供の頃は誕生日プレゼントが楽しみで秋になるとワクワクしたが、最近は歳が増えるのでビミョーだ。

毎年、秋になると人間ドック的な検査をサボらずに続けている。ちゃんとした人間ドックは妙に高くてイヤなので、あくまで人間ドック“的”な検査である。

血液検査の他、胃の内視鏡、大腸の内視鏡、腹部のエコー検査、肺のCT検査が主な内容だ。


これだけやれば人間ドックと変わらない。面白いもので、一連の検査が終わると検査結果を聞く前からやたらと元気になる。

「オレは健康面に気を使ってるんだぜ!」という自負心のなせるワザである。良いことをした後の晴れやかな気持ちみたいな感覚だ。

人の体調ってそんなものかもしれない。

クソまずい野菜ジュースを飲むと急に身体が綺麗になったような気がするのと同じだ。

私だけだろうか。

ふるさと納税を使って、この1年ぐらい日本全国から野菜ジュースを取り寄せている。しかし、そのうちの9割ぐらいが美味しい。

それではダメである。

私の場合、野菜ジュースに美味しさは求めていない。マズさを求めている。マズければマズいほど身体に良いと信じている。

変だろうか。

今のお気に入りは長野県安曇野市から送られてきた野菜ジュースだ。濃縮還元ではないストレートなジュースで甘味も感じられず野菜の味そのまんまである。


野菜好きな人には素晴らしく美味しいのだろう。でも、私としては鼻をつまみながら一気に飲む感じだ。そこがいい。

これは決して悪口ではない。その証拠に私はこの野菜ジュースを何度もリピートしている。毎朝食後に欠かさず一気飲みしている。

ちょっと別の話になるが、先日買物ついでに緑色のマズそうな野菜ジュースが目にとまったので恐る恐る買ってみた。

青汁で見慣れたはずの「緑色」だが、私の愛飲している青汁よりもドンヨリした緑だ。「マズさ確定」みたいな感じだが、一口飲んでみてビックリ。


アホみたいにウマかった。伊藤園の充実野菜である。あまりにウマかったので自分の中でリピート禁止を決定した。

あんなにウマいのに身体に良いはずがない。おそらくヘンテコな思い込みだが、私の中のルールだから仕方がない。マズい野菜ジュースが嫌いな人にはオススメです。


さて、会社で毎日欠かさず飲む青汁や各種サプリだけでなく、マズい野菜ジュースも日課になったのだから私も随分と良識派になったものである。

間違いなく、5年前にシングルライフになってからの方がキチンと健康管理を考えるようになった。

変な話だが、不必要に長生きしちゃったらどうしようなどと呑気に考えることさえある。

そうはいっても、青汁と野菜ジュースのせいで、食事の場面で野菜はまったく手を付けなくなった。まさに徹底という感じである。

ついでにいえば、薬のおかげで血圧が安定しているので、塩分や塩っ辛いものもちっとも遠慮せずに食べている。

健康なのか不健康なのか何となくビミョーである。

2017年9月22日金曜日

我が輩はセミである


先日、台風一過の暑かった日、おそらく近所で最後のセミの声を聞いた。真夏日だったから生き残っていたセミが必死に叫んでいたのだろう。

セミはオスだけが鳴くらしい。何年も地中深くで暮らし、地上に出てきて一週間程度の命を交尾のためだけに鳴き続ける。

なんとも切ない話だ。どこの世界でもオスは切ない。カマキリなんか交尾中にメスがオスを頭から食い尽くしちゃうんだから堪ったものではない。

先日の暑い日に鳴いていた季節外れのセミの切なさも男として涙なしでは語れないほどである。

セミ業界が今年のシーズンを終え、メスだってもう残っていないのに、相手を見つけられなかったオスが必死になって交尾を求めて絶叫していたわけだ。

まるで婚期を逃した中年男が、相手なんて見つからないのにせっせと婚活に励んで入るみたいである。

私のことではない!

オスがメスを求める本能ほど、生きているなかで厄介なものはない。古今東西、そんな次元の揉め事が数々の事件を巻き起こしてきた。

四十にして惑わず。孔子の言葉である。「不惑」の語源だが、これって、40歳になったら様々なことが分かってきて自分の生き方に迷いが無くなるという意味である。

不惑だからもう惑わされないとか、不動心みたいな単純な意味ではない。

私自身、40歳になって様々なことが分かってきたからこそ、結局自分は今後も女性にたぶらかされながら生きていくのだと達観している。

ある意味、女性を追いかけ続けることに迷いが無くなったわけである。これも立派な不惑である。

なんかヘンテコだが、それが真理である。


夏は暑いからさておき、秋や冬になると人肌恋しくなる。幼い頃、親にくっつきたがった感覚が、今も柔肌?を求めてさまよう悪いクセにつながっているのだろうか。

50歳を過ぎてもそんなことを言っているのは、寂しがり屋なのか、単なるスケベなのかビミョーなところだ。一応、世間的には前者を理由にしておこう。

まあ、中高年の誰しもが「このまま自分はしおれていくのか」という焦燥感のようなものを抱えて生きている。

男女ともに同じだろう。男の場合、自分が現役であることを実感したいがためにオスの部分を強調したくなって若い女性相手に奮闘する。

妙に張り切っている美魔女などと称されるオバサマも似たようなものだ。まだまだ女として現役だと世間一般にうったえたくてアピールに励む。

男も女も行き過ぎると痛々しい感じになってしまうが、必ずしも悪いことではない。

男であること、女であることを捨てちゃって、出がらしみたいな顔をして生きている中高年よりも人間として魅力的だという見方もできる。

いわば、あの痛々しさこそが、ひょっとすると人生の醍醐味であり、今を生きている証のようなものかもしれない。

世界にも例を見ない超高齢化社会に突入したわが国では、“中高年のハッスル”は大いに意義深いテーマだと思う。枯れちゃった中高年ばかりでは社会の活力は生まれない。

中高年の色恋沙汰や肉欲のなかには、もちろん、純粋な恋心もあるだろう。年齢による焦燥感などに関係なく、ごく普通に恋愛に走る中高年も少なくない。

そうはいっても、そんな綺麗な話ばかりでない。やはり、現役感の確認や焦りから来る征服欲みたいなものに駆られて奮闘している男は多い。

まあ、それはそれで本能みたいなものだから他人がとやかく言うことではないのだろう。


理性だ社会秩序だモラルなどと言っても、しょせんは人様が都合良く作ってきたものだ。

若い時代を過ぎ、人生後半戦を迎えた「悪あがき世代」ともなれば、そんな呪縛にとらわれず好き勝手に行動したくなるのも仕方がない。

悪意を持って人を騙したり傷つけたりしなければ、女性とネンゴロになるために必死になるのは結構なことだろう。

というわけで、私も結局は夏の終わりのセミのように、なりふり構わず叫び続けていこうと思う。

2017年9月20日水曜日

生命保険と私の思惑


日々フラフラしている私でも老後のことはそれなりに不安である。財産と呼べるものはシングルになった時にだいたい無くなっちゃったし、貯蓄や投資に頑張るタイプでもない。

冷静に考えれば不安である。まあ、よほどの資産家でもない限り誰だって老後不安はあるだろう。

毎月5万円貯金したら10年で600万、20年で1200万である。ちょっぴり持っている貯金とちょぼちょぼの年金プラスその程度では、長生きなんか出来やしない。

宝くじがドカンと当たらない限り、ムダに長生きしたらダメなのかもしれない。恐い恐い。イヤな話である。


ここ10年ほど、自分が入っている生命保険をマメに見直している。基本的には年齢が若いうちに契約するのがトクだが、生保商品もいろいろだ。

中高年になってから老後を見越して加入の仕方を見直すのは必要なことだと思う。うまく入り直せば、解約返戻金という“余録”を次に入る生保商品に投入することも出来る。

「生命保険イコール死んだ時の話」。一般的にはまだまだこんなイメージは強い。はたしてそうだろうか。

私の場合、積立型の生保から契約者貸付でお金を引っ張ることもあるし、あくまで貯蓄の一種という捉え方をしている。

漫然と貯金するのは苦手だが、積立型の保険なら保障が付いているから何となく続けられる。口座引き落としだからサボれないのも魅力だ。

先日、医療保険を入り直した。検診の結果、健康体である私は何も条件を付けられることも無かったので、以前の保障内容と遜色のない商品に変えた。

毎月の保険料もさほど変わらず、病気、痛飲、いや通院の内容によっては以前より充実した保障が受けられるようになった。

新商品の良さはさておき、前のものをヤメたおかげで結構な金額の解約返戻金が振り込まれたのでバンザイ三唱である。

これをムダに使わずに老後資金の一部にしないといけない。

たぶん無理だと思うが。

以前からいくつか入っている保険は割と貯蓄的な要素の強いものを選んでいる。自分が75歳ぐらいになった時点で、それなりの解約返戻金が出るような内容の終身保険に複数入っている。

その時点になれば、私の子供もいっぱしの大人である。玉の輿にでも乗ってくれたら私がお金を残す必要もあるまい。

まあ、玉の輿はともかく、高額な保険金を残す必要が無い状態だったら、漫然と保険に入り続けている必要はないという話になる。

実際、その時点で私自身が老後資金に不安を抱えている可能性だって充分にある。

その場合、医療保険は残して生命保険は解約するか契約者貸付で大半をおろしちゃって自分用に使うことを想定しているわけだ。

貯金よりは利回り的には劣るのは仕方ないが、いざという時の保障も捨てがたい。二兎を追っているような感覚だ。

生命保険は残される家族のためのものという考え方があるが、それだけではない。自分のための貯蓄の一つという考え方も正しい。

ちなみに、先日新たに米ドル建ての終身保険を新たに契約した。毎月の保険料も保険金もその時点のレートで換算される。

これまた75歳ぐらいで解約返戻金が結構な金額になる仕組みだ。その時点で1ドル180円ぐらいになっていたらボロ儲けだと思ったのだが、毎月の保険料も値上がりしちゃうから、大した意味はない。あくまで返戻率が悪くなかったから選んだ。

ついでにアレコレ調べていたら、私が掛けている娘の保険も結構な解約返戻金が期待できることを思い出した。

高校生の娘が生まれたばかりの頃に契約した保険がいくつかある。赤ちゃんが被保険者だったから毎月の保険金は非常に安かった。

娘を被保険者とした医療保険や終身の生命保険である。娘はまだ高校生だから、今また似たような保険に入り直しても毎月の保険料はさほど高くはならない。

医療保険以外は、もともと娘が将来、留学したいとか突発的な出費がかかるような余計なことを言いだしたら大変だと思って、一種の学資保険的に契約した貯蓄型商品だ。

やはり簡単にヤメてしまってはいけない。さすがに娘の将来のために保険料を払い続けて“貯まり”を増やしていこうと思っている。

でも、医療保険なんかは、似たような別商品に入り直して解約返戻金をこっそりゲットしちゃおうかなとフラチな考えが頭をよぎる。

いや、それもきっと娘が大人になるまでキープしておかないと、結局いずれは自分の首を絞めることになるからガマンしないといけない。

今日は何だかいつも以上に意味不明な話に終始してしまった。

一応、将来のこともちょっぴり考えているんだぞと世間様に対して宣言したくなったのだろう。

2017年9月15日金曜日

作詞作曲


歌うのは好きだ。聴くのも好きだ。音楽は文字通り音を楽しむものだから、人の数だけ好みや楽しみ方がある。

歌う、聴く、奏でるの他に「創る」という楽しみもある。最近、そんなことを実感した。そう書くと何だかエラそうである。

小学生の時に縦笛すら吹けず、もちろん音譜も読めないド素人の私が言ったところで説得力はない。でも、そんな私が友人とオリジナルの曲を創ってみた。

まあ、友人の作曲能力がなかったら話にならなかったのだが、とりあえず作詞は私だ。ふたりでヤイノヤイノ議論しながら作った。これがかなり楽しく充実した作業だった。

もちろん、私は詩を書いただけなので悠長に構えていれば済んだ。作曲者である友人が楽しかったどうかは不明だ。

この春、お互いにとっての旧友が急逝した。ともに小、中、高と同じ学校に通った関係だ。彼をモチーフにした追悼曲のようなものを作りたくなって、曲と詩を何度もすり合わせしてきた。

調子に乗ってコーラスアレンジまで考え始めたから完成段階である。11月に予定している我がオジサマバンドのライブでも披露する予定だ。

歌いながら泣きそうな気がする。気をつけよう。

さてさて、まったく何も無いところから詩を作って曲が付いて歌になる。当たり前のことだが、これって凄いことだ。

出来の善し悪しはともかく、まったくの「無」から始めるわけだから出来上がった時の喜びは大きい。

もちろん自己満足の世界だ。人様から見ればケッ!と言われそうな話だが、この歳になって新たな物事の楽しさを知った新鮮な感覚がある。

詩が出来た時には正直シックリこなかったのだが、ノッペリした言葉の数々がメロディーに乗ることで様変わりした。命が吹き込まれた感じがする。

友人が懲りずに付き合い続けてくれたら、今後も「知られざる名曲」?はいくつも生まれるはずだ。

まったくの手前ミソ、過剰な自画自賛で恐縮です。

とりあえず作曲担当の友人には元気でいてもらわないといけない。最近、私を見習って青汁を飲み始めたようだから、まだしばらくは大丈夫だろう。



「ムード歌謡を甦らせてダンスミュージック全盛の音楽界に一撃を与えよう」。彼の言葉だ。高い志である。

ちなみに今回創った歌はムード歌謡っぽくはない。「いきものがかり」が歌いそうな雰囲気の曲である(ファンの人、スイマセン)。

ムード歌謡チックな歌は来年以降の我々の課題だ。いま構想中の曲の仮タイトルは「ここにキスして そこじゃないのよ」である。

作曲担当の彼とは高校生の時にもオリジナル曲を2つ3つ作った。5年ほど前にもスンバらしい未発表曲を創っている。

空白期間はさておき、コンビ歴は一応30数年だ。阿久悠と都倉俊一もビックリである。

つくづく高校生の頃に本気にならなくて良かったと思う。あのまま創作活動を続けていたら、昭和と平成をまたぐ偉大な作詞作曲コンビになって超多忙な日々の中、早死にしちゃったかもしれない。

そういうくだらない妄想に浸るのが最近の私の楽しみなので御容赦いただだきたい。

せっかくだから今回完成した曲の歌詞を少しだけ載せてみる。タイトルは「泣き笑い」である。


星を眺めてみる

そこにキミがいなくても

そこにキミは キミは いるのかな

(~中略~)

飲み干そう 苦い 酒は嫌いだろう
       
この歌もきっと  茶化すだろう
                       
笑いながら おどけながら フラついた日が愛しい

         
思い出はモノクロに
       
変わっても 目を閉じると 

永遠の無邪気がいま 甦る
             
忘れないよ いま出来ることは キミを想い ただ泣き笑い
 
(~後略~)


歌詞については、ノッペリしているし、まさに「そのまんま」という感じ。正直インパクトは薄いのだが、言葉がメロディーをまとうことで一気に様子が変わる。

議論してイメージを膨らませ、詩と曲の微調整を何度も重ねたことで、いつのまにかちゃんとした「歌」に仕上がったわけだ。

素人にも素人なりの楽しみ方がある。そんな音楽の効用に今更ながら気付いて、創作意欲が盛り上がっている今日この頃である。

2017年9月13日水曜日

クルマと色気


運転免許を取ってから気付けば30年以上が過ぎた。なんだかビックリである。「気づいたらウン十年」みたいな話がやたらと多くなった。

まあいいか。

先日、クルマを乗り換えた。まだまだ色気のあるクルマに乗りたいと思うのだから私も現役バリバリである。

家庭持ちではないので、ファミリーカーを選ぶ必要はない。この3年ぐらいも2ドアのスポーツタイプのクルマに乗っていた。


今回乗り換えたクルマの外装色は黒である。私を取り巻くすべてのことが「黒字」であって欲しいという願いを込めた。ウソです。

中は画像のようにシャレオツな色である。誰を乗せるわけでも無いのに、ついつい「色っぽさ」を求めてしまう。

これまで何だかんだで20台ぐらいのクルマに乗ってきた。アマノジャクな私としては、街でやたらと見かけるようなクルマは苦手だ。

その昔、「ソアラ」が流行った時はあえて「レパード」を選んだし、”四駆乗り”を趣味にしていたときも「パジェロ」ではなく「サファリ」だった。

ベンツやBMWの素晴らしさも分かるが、どうせだったらジャガーに魅せられる。少しだけズラしたくなる感覚とでもいおうか。

いずれは自動運転が普通になる時代が来るらしいが、30年以上も運転していると技術の進歩にはいちいち驚かされる。

私が運転を始めた頃はフェンダーミラーからドアミラーに変わった頃だ。ナビなんて夢の世界だったし、カーオーディオもカセットテープだった。隔世の感がある。

今は機械式車庫の上り下りだけで、盗難防止装置が作動しちゃうし、音楽なんて無限の曲数をドライブのお供にできる。

先日久しぶりにカー用品店のオートバックスに出かけたのだが、昔とは大違いだった。置いてあるモノがアナログな私にはよく分からないし、だいたい週末なのに混雑していないのが不思議だった。

30年前は若者のクルマ熱が凄いことになっていたから、カー用品店もテーマパーク的に賑わっていた。時代が様変わりしたことを実感する。

思えば、ここ10年ぐらい「ねえねえ、どんなクルマ乗ってるの~?」と尋ねられたことはない。その昔は若者の会話の多くがクルマに関する話題だった。

クルマ熱が昔ほどじゃなくなったことでケッタイな「クルマ・ヒエラルキー」みたいな話が聞かれなくなったのは悪いことではない。

かつてはクルマの名前だけでなく、同じクルマでもラインナップごとの”車格”によって優劣が語られるような風潮が今より遙かに強かった。

もう20年以上前だが、アメリカのジープ・ラングラーにハマったのだが、あれもクルマ・ヒエラルキーの外側にいるような解放感?が理由だったのかもしれない。

時々、あてもなくドライブする。好きな音楽を爆音で聴きながら走ると気分転換になる。

高速だったら爆音プラス熱唱である。世の中で高速走行中のクルマの中ほど大声で歌える場所はない。

カラオケボックスもいいが、しょせんあれはマイク越しである。生声大熱唱は高速運転中のドライバーの特権だろう。

英語の歌をカラオケボックスで歌うと、画面に表示される英語のせいで自分の歌のデタラメぶりに暗澹たる気分になるが、クルマの中は自由である。

歌の合間合間に♪ワッキャナドゥーベイベー♪などと意味不明の叫びを混ぜてもOKである。

以前はドライブデートなどと洒落込んだこともあったが、今はそんな機会も激減した。女性が助手席に乗るといろいろとモヤモヤするからそれで結構である。


昔と違ってちょこっとでも酒を飲んだらクルマを運転してはいけない。もはやデートのためにはクルマはメンドーな存在になってしまったのかもしれない。

昔の大らかさが懐かしいが、逆にいえばあの時代はかなり危ない時代だった。ある時期から飲酒、酒気帯びに厳罰が科せられるようになったのは極めて正しいと思う。

そんなわけで、クルマを換えたところで助手席は空いたままブイブイ言っている私である。

ついでに私が大好きなハマショー師匠の名曲「サイドシートの影」の歌詞を載せる。
来年あたり自分のライブでパクろうと考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

海が見えたら起こしてあげるから
もう少し眠りなよ ラジオを消して
サイドシートに話し掛けてみる
そこには誰もいないのに

隠れ家のような仕事を片付けて
醒めたイルミネーション 照り返す街に
眩しい笑顔と一夜の慰めを
今夜も探してる ゲームのように

曖昧な痛みが押し寄せ去ってゆく
真夜中の通りを海へと走ってく
カーラジオ繰り返す無機質なビート
まるで僕の鼓動のように

誰かの腕に抱かれて眠りたい
何も奪わぬ恋に落ちて

2017年9月11日月曜日

浮気とウナギ


日本人はウナギを縄文時代から食べていたらしい。先日見たテレビでそんなことを言っていた。凄いことだ。

「縄文人が食べたものを食らう」。これをロマンと呼ばずに何と言おう。空前絶後、超絶怒濤である。意味不明でスイマセン。


ちなみにこれは某所で食べたウナギのタタキ。簡単にいえば白焼きにネギをいっぱい載せてポン酢で味わうという一品。こういう楽しみ方も大いにアリだ。

ぶつ切りで食べていたウナギを蒲焼きにしたことで、日本人は世界にも類を見ない”ウナギ民族”に進化した。

裂くための刃物の発展と独特の味を生む醬油とみりんの誕生が今の鰻食文化につながったそうだ。NHKのドキュメンタリーが言ってたからホントだろう。

大昔からの刃物、醬油、みりん関係者には心から感謝したい。バイアグラを開発した人も偉いが、日本の鰻重を完成させた先人はもっと偉い。

本来、ウナギはハレの日に食べるべきだが、ウナギのことばかり考えている私は頻繁に食べたくなる。

まあ、この歳になって不平不満もなく平和に生きているわけだから、いわば毎日がハレの日みたいなものだ。

時には出前も注文する。日々いろいろと奮戦しているので、バテちゃって早く帰宅する日もあるのだが、そういう時にデリバリーウナギが食べたくなる。

出前なんかウマいはずがない。ウナギラバーとしては当然そう思う。そりゃあ店で出来たてを食べるのが一番だが、出前だって決してバカにしたものではない。

時々、出前で持ってきてくれる鰻重が妙に美味しいので、とある日、実際の店舗まで足を運んでみた。

ちょっとビミョーだった。どうやら昼の時間帯は別として、夜は出前のほうがメインの様子。何より困ったのがメニューに白焼きが無いことである。

ウナギ料理の店というより鰻重専門店みたいな感じだ。そうは言っても昼時じゃあるまいし、酒のツマミとして白焼きは欠かせない。お願いして鰻重の前に白焼きを出してもらう。

メニューに無い割には充分に美味しい白焼きが出てきた。焼き加減はもちろん、蒸し加減、塩加減もバッチリ。

しかし、しかしである。ワサビがいわゆるチューブものだった。あまりウルサイことを書くのはヤボだが、さすがにウナギの白焼きは本物のおろしワサビが絶対条件だ。

白焼きがメニューに無いということは、ワサビの用意も無いという意味だったわけだ。まさに盲点を突かれた感じだった。

別の日、またウナギが食べたくなって初訪問の店に行く。グルメサイトの口コミを信じて出かけたのは、谷根千エリアの某店。

”鰻重専門店”での失敗を取り返したかったので、ウナギ料理が数多く揃うという触れこみのその店を選んだ。

店内は大盛況。期待大である。ウナギ料理の種類も多い。酒の品揃えも凄い。ウッシッシである。

ウナギのキモワサビや白焼き、肝煮などを肴に冷酒をグビグビ。幸せである。

当然、鰻重も頼む。しっかり完食。でも極めて普通。白焼きや鰻重に関しては、前述の出前メインの店の方がウマいと感じた。

グルメサイトでの高評価は何なんだろう?。自分なりに分析してみた。要するにこの店はウナギ専門店というより「飲み屋さん系」というワクの中で高い評価を得ているみたいだ。

実際、メニューにはウナギ以外の料理も数多い。普通の飲み屋さんとして使っているお客さんも多い様子。

ウナギを使った串焼きを何本か頼んで、その他の小料理をツマミにワイワイするような使い方が正しいのかもしれない。

これまた盲点を突かれた感じだった。

ウナギに満足したければ、過去に満足した店をリピートするのが正しい。そんな当たり前のことを守らない私は、結構な頻度でハズれ気分で悶々とする。

やはり浮気はダメである。今の世の中、ちょっとした浮気でも不倫だ不倫だと騒がれて世間から糾弾される。

ウナギの世界も浮気男は痛い目に遭う。残念ながらそんな気がする。

2017年9月8日金曜日

おやつバンザイ


いつの間にかお菓子を間食するようになった。デブにとって自殺行為である。

もともと間食派ではなかったのだが「甘甘パパ」として娘のためにお菓子を買い置きしているうちに気付けばボリボリムシャムシャ食べるようになってしまった。

離れて暮らす娘は割と頻繁に我が家に泊まりに来る。ハッスル父ちゃんとしては、お菓子やドリンク類をやたらと揃えて歓迎してしまう。

元来、私はストック魔である。1個や2個だけ買って済ますわけにはいかない。ドッサリ買う。

もちろん、1度の滞在で娘が食べきれるはずもなく、気付けば山のように貯まっていく。置き場所に困るほどワンサカある。

で、在庫整理を兼ねて自分で食べ始めたらハマってしまった。大問題である。お菓子がこんなにウマいとは思っていなかった。デブまっしぐらである。

ポテトチップ一つとっても昔より味の種類が豊富だ。ウットリするぐらいウマいやつがある。キャラメル味と普通の塩味のポップコーンが半々に混ざっているヤツもある。イヤんなっちゃうぐらいウマい。


さて、数々のお菓子を味見してきた中で個人的にビックリ仰天のウマさだったのが「ふんわり名人きなこ餅」である。これは無敵だと思う。

味はもちろん、食感がはかなげで素晴らしい。フワッ、ホコッ、サクッサラ~という感じで口の中で消えていく。

ほどけていく感じというか、これに似た口どけのお菓子はなかなか見当たらないのではなかろうか。

以前このブログで紹介した「1万円のふりかけ」よりも衝撃的な口どけ感が私を瞬時にトリコにした。


初めて食べる時、たいていの人が「何じゃこりゃあ~」と叫ぶはずである。

池上彰さんのように「無双」と呼んでもいい。近所のスーパーで見つからない時はネットで取り寄せている。これと一緒にお茶をすすりながら「寅さん」を見るのは私にとって神聖不可侵な時間だと言える。

可愛いコちゃんがベットで手招きしていても黙殺する自信がある。本当だ。間違いない。たぶん。おそらく。

近頃のコンビニスイーツも「恐るべし」の一言である。街場のケーキ屋さんにとっては死活問題だろう。目ン玉ひんむくぐらいウマいヤツに出会うことも珍しくない。


セブンイレブンの「ふわっとろ宇治抹茶わらび」である。これも衝撃だった。至高の食感である。初めて女性の生乳に触れた時と同じぐらいムホムホした。

我が家に程近い小石川の名店「一幸庵」のわらび餅を食べた時と同じように感激した。こんなものがコンビニで買えちゃうんだから何とも幸せな世の中だと思う。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/05/blog-post_20.html

甘いお菓子だけでなく、大人としては塩辛い系も外せない。私が最近ハマっているのがカレーうどんの人気店「古奈屋」の味を再現したという触れ込みの揚げ餅である。


カレーうどん味だからジャンキーな風味になりそうなところだが、意外に強すぎない味で飽きずにボリボリしてしまう。大人のお菓子としてなかなか稀有な存在だと思う。

私が有名人だったら、ブログで紹介したお菓子のメーカーから御礼として商品がどっさり届くのだろうが、そこはしがない一般人だから何の役得もない。

そのかわり私がどんなにウマいウマいと叫んだところで、ここに書いた商品が品薄になることもない。

お菓子をガンガン買える程度には富豪?だからそれで良しとしよう。 

2017年9月6日水曜日

いかにとやせん


夏の終わりの寂しい感じが好きだ。グッと来る。他の季節にはない独特の寂寥感がある。

夕陽の色合いも切なげで、遠くにかすかにヒグラシの鳴き声が残る中、鈴虫やコオロギの鳴き声が日に日に強くなっていく。

風の匂いも変わる。うまく表現できないが胸がキュンとする。悲しいことなどないのに哀愁気分に浸りたくなる。

季節の変化は子供の頃から体験しているが、年齢とともに節目節目の移り変わりに敏感になる。郷愁にかられる気持ちが強くなっているのだろう。

「いかにとやせん」。忠臣蔵の浅野内匠頭の辞世の句で使われている言葉だ。「どうしたらいいのだろう」「どのように伝えればいいのだろう」といった意味合いの言葉だ。

夏の終わりにふと感じるノスタルジックな気分はまさに「いかにとやせん」である。週末の夕暮れ、ボンヤリ散歩しながらそんなことばかり考えている。

不思議なもので、こういう感覚は本格的な秋になれば忘れてしまう。あくまで夏の終わりのほんのひとときの感傷だ。だからこそ妙に切ない気分になる。

薄れていく感じ。追いかけたくても届かない感じに無性に気持ちがザワつく。わけもなく亡くなった祖父母や友、ついでに昔好きだった人なんかを思い出したりする。

そんなときに浮かぶのはなぜか唱歌が多い。「赤い靴」「夕焼け小焼け」「椰子の実」あたりが頭の中でボンヤリと響いている。

ありとあらゆる音楽の中でも、日本の唱歌が持つ郷愁を誘う独特なメロディーラインは素晴らしいと思う。というか、日本人の感性だからこそ感じる素晴らしさだろう。

アフリカの人が聴いても何も感じないのかもしれない。まあ、あちらにはあちらの郷愁メロディーがあるはずだ。

ホロ酔い気分で帰宅して下手なギターをジャジャガ弾いても、一息ついて風呂に入れば、出てくる鼻歌は「椰子の実」だったりする。

♪名も知ら~ぬ、遠き島より~♪である。ガサツな毎日を過ごしている私でも、この時期はロマンチストみたいな顔をして生きている。

日本的DNAが身体の奥底の方に染みついているのだろう。風鈴の物悲しい響きとコオロギの鳴き声がセットで聞こえてくると、まさに辛抱たまらん状態だ。

ちょっと頑張れば涙だって出そうなぐらいだ。まあ別に悲しくないので泣かないが、つくづくこの先の人生では、この季節に不幸なことが起きないことを祈りたい。

ここ数年、夏の終わりに敏感になったのは、自分自身の人生の季節が秋だからだろう。過ぎ去った人生の春や夏へのノスタルジーがそうさせるのかもしれない。

なんだかガラにもなくおセンチな話を書いてしまった。

まあ四の五の言ってもしょせん私は俗物である。その証拠に昨日今日あたり私の頭の中を支配しているのはサンマや土瓶蒸しのことばかりである。

そんなものだ。

2017年9月4日月曜日

僕 俺 自分 ワシ


日本語の面白さを象徴するのが一人称の多様さだ。英語だったら「I」だけだが、日本語の場合、今日のタイトルのようにいろんな種類がある。

このブログでしょっちゅう使っている「私の場合・・・」という言い回しは主に書き言葉で使っている。実際の私は、人と話している時に「私」と言う場面は滅多に無い。

このごろハヤリ言葉のように使われている「印象操作」という意味でも、日本語の一人称は巧妙に使われている。

トランプ大統領のイカつい発言がテレビで流れる際、邦訳テロップや吹き替えは「オレ」が使われる。大国の大統領が使う言葉としては違和感がある。


安倍さんが北朝鮮のミサイルに怒っても「オレは断固抗議する」とは言わないわけで、トランプさんの「I」は「オレ」ではなく「私」が正しいはずだ。

最近でもウサイン・ボルトの会見映像がヘンテコだった。普通に会見場に座ってキチンと受け答えしているボルトの一人称はナゼか「オレ」。おまけに敬語は一切使われず、ぶっきらぼうな物言いに終始していた。

失礼な話だと思う。ボルトに限らず、野性的なイメージがある著名人の邦訳はたいていが「オレ」であり、「まいったぜ」「頼んだぜ」みたいな「ぜ」が平気で使われる。

ワイルド系の黒人著名人の場合、一人称は「オレ」で統一されているという話を何かで読んだことがある。もし本当だったら一種の差別だろう。

人種に限らず、労働者風の人が語るシーンの邦訳では「オレ」が多用され、ホワイトカラーだと「私」や「僕」が使われる。いとも簡単に印象操作が行われているわけだ。

なんだか固い話になってしまった。軌道修正。

男の一人称として別格の存在が「ワシ」である。広島や関西の一部の人は別として、自分のことを「ワシ」と称する人には会ったことがない。

「幻のワシ」である。若い頃、大人になったら自分を「ワシ」と言えるような貫禄のあるオッサンになりたいと本気で思っていた。

今の私なら年齢的に「ワシ」を使えそうなものだが、いまだに「僕」とか言ってしまう。なんだか小者みたいでシャバダバである。

でも、「ワシ」という一人称は想像を絶する波瀾万丈な生き方をしてきた人にしか許されない言い回しのような気がする。ちょっと大げさか。


「ワシ」といえば「江夏豊」である。言わずと知れた伝説の名投手だ。昭和の野球小僧にとって「江夏豊」イコール「畏敬の念」である。

ある時期、あの清原が「ワシ」の後継者かのような位置付けになったことがあったが、やはり“ワシ業界”において江夏こそ無双である。

ところが、時々テレビに出てくる江夏サマは「オレ」を普通に使い、時には「僕」まで使っている。「ワシ」で語り始める姿を見たい私は悶々としてしまう。

ワシ業界最高峰の江夏御大としては、きっと「ワシ」の使い方にこだわりがあるのだろう。元広島の達川みたいに「ワシ」の安売りを自制しているのかもしれない。

さすがだ!江夏豊!

ちなみに、江夏師匠が自分を「僕」と呼ぶ場面もキュンとする。単に私は江夏が好きなのだろう。

さてさて、オチが見当たらないから「ワシ」に関するウンチクを一つ。

今ではすっかりコワモテオジサン専用になった「ワシ」だが、江戸時代には女性の一人称だったらしい。

ということは、江夏がタイムマシンで江戸時代に行ったらオネエ扱いされてしまう恐れがあるわけだ。

江夏御大には何があってもタイムマシンには乗らないで欲しい。

2017年9月1日金曜日

合コン


前回は寿司屋のカウンターでイキがることを忘れてしまったというユルユル状態の話を書いた。

やはり“イキがる”ことは男子にとって必要な人生訓だと思う。「温和で朴訥な人畜無害の善人」も結構だが、少なくとも私はそっちの路線を目指してはいない。

男女の関係だって、イキがってこそ楽しい。分かってはいるのだが、最近どうにもイキがる場面が減ってきた。ちょっと反省中だ。

トンがっていた部分が丸くなるのは良いことだが、ホゲホゲし過ぎるのも好々爺みたいで問題である。

先日、男女混合飲み会に呼ばれた。いわば合コンみたいなものだ。女子チームは永田町や国営放送で働くアラフォー。よく食べるし、よく飲む。実にエネルギッシュだ。

若い頃なら出会い系?の宴会では正しくスカして正しくイキがった私である。ちゃんとギラギラもしていた。

最近は場を和ませるためにただのオチャラケで終わる。イヤミにならない程度に支払いを多めに済ませて好々爺のような顔をして帰路につき、家に着いたら一人でソーメンを茹でている。

枯れ過ぎである。

以前だったら「袖振り合うも多少の縁」とばかりにギラギラ光線を発射した。それが正しい男子の在り方である。

ちゃんとお持ち帰りも企んだし、そうじゃなくても気に入った女性とは連絡先を交換してその先の発展を思い描いたりした。

今ではユルユルだ。獲物を狙う野性の感覚?を忘れてしまったみたいだ。こんなことでは干上がってしまいそうで問題だ。

枯れてしまったわけではない。まどろっこしいのがメンドーになっただけだ。いや、それは言い過ぎか。

楽しいことは楽しいのだが、二次会まで行ったのに翌日になったら参加者の名前も顔も覚えていない。

だいたい、飢えた狼じゃあるまいし初対面の女子にグイグイ行くなんてカッチョ悪いというブレーキがかかる。他の男性陣の目も気になる。

まあ、人目を気にすること自体、別な意味でカッコつけているわけだから意味不明である。

そんなエラそーなことを書いている私だって、人の目が気にならない場面では、正しく狩猟活動に励んでいる。それなりに奮戦している。

突き詰めれば、合コン的な場が以前よりも苦手になってきたのだろう。これもワガママが加速しちゃった裏返しかもしれない。

その場にいる全員と和やかに過ごすためには協調性が大事だ。もちろん私だって場がシラけないように気配り目配りに気を使う。そこそこ気疲れもする。

それがメンドーになってきた。歳とともにワガママや偏屈は強まるというが、どうもホントらしい。最近は面倒くさいことをすぐに避けたがる。

あまり興味のない人とどうでもいい話で盛り上がることが億劫になってきた。これって単なるワガママだ。

地球上に人間は70億人もいる。そう考えると知り合うだけでも奇跡だが、そんな奇跡に感謝する気持ちが欠如している感じだ。

このままでは確実に孤独な老後が待っているから、もっと社交的にならないとマズいと思う。

なんだかグチみたいな書きぶりになってしまった。

そうは言っても、私は女性が好きである。女好きか否かと聞かれたら、迷わず女好きだと答える。だったらもっと奮闘しなければダメだ。

先日のその飲み会では、二次会でネジの緩んだ男が、女子に抱きついたり触ったりしていた。女子の方もオトナだから上手にいなしていた。

素晴らしい光景だった。うらやましかったし、仲間に入りたかった。

うまくいなしてくれる女性にチョッカイを出すことほど男としてワクワクすることはない。

この歳になって殻が破れない自分を反省する。

ストレートなスケベオヤジになることを今後の人生の指針にしようと決意する今日この頃である。

なんだかシミったれた話になってしまった。

2017年8月30日水曜日

寿司屋のカウンター


緊張感もなく暮らしている昨今、自分のユルユルぶりを痛感するのがお寿司屋さんで過ごす時間だ。以前はもっとキリっとした客だったはずだが、今ではフニャフニャである。


30歳ぐらいの頃から「寿司屋のカウンターでの過ごし方」は私にとっての大きな課題だった。いま思えば「大人の階段」だったのかもしれない。

物事がスイスイと動く時代の中で、「頃合い」「加減」「塩梅」「間合い」「空気感」といった、いわば大人の男としての“機微”の部分を学んだのが寿司屋のカウンターである。

なんだか大げさな書きぶりになってしまった。

少年時代はミーハー雑誌の影響でカリフォルニアが最高などと洗脳され、バブルの頃にはイタリアンだカフェバーだとカタカナ的なモノの洪水の中で育ってきた私である。

そんな私の指向は20代後半の頃から変わっていった。今は無き某寿司店の大将にいろいろなことを教わり始めたことがきっかけだった。

今よりも無知無教養だった私は、その店に通う常連さん達からも学ぶことは多かった。

あれから20年以上が過ぎた。恥ずかしい経験も重ねた。自分なりに勉強もして散財もして、場数も踏んで、今ではいっぱしのオジサマである。

当然、知識も経験も豊富にはなったが、その一方でいつの間にかカウンターに座っても緊張感もなしにユルユルするようになってしまった。

ユルユルになると自分なりに大事にしていたこだわりも無くなる。自分を律していたルールも守らなくなる。

昔は注文ひとつするにもイキがっていた。「そんなものは邪道だ」「女子供じゃあるまいし」などと勝手に気取っていた。

今では「コーンマヨ軍艦」が本気で食べたいと思うぐらいユルユルである。

これまで散々「シメはコハダに限る」「煮ハマは江戸前の華だな」「トロなんて食うもんじゃない」「かんぴょうに何故ワサビを入れないんだボケ」「シンコは2枚漬けぐらいがウマい」などと分かったようなことを語ってきた。

そんな呪縛のような信念?の一つが「イクラやウニばっかり食べるヤツは寿司のことが分かっちゃいない」というもの。それこそ寿司に詳しくない人をクサすような場面でエラそうに語ってきた。


ウニやイクラが死ぬほど好きな私である。なのにイキがってウニ、イクラを「女子供が食うもの」などと一段下に見るような物言いを繰り返してきたわけだ。

バカみたいである。女子供の皆様ごめんなさい。

まあ、職人さんが寿司ネタに仕事を施したかどうかという点で、他のネタとは差別されがちなのもウニ、イクラを取り巻く現実ではある。

とはいえ、ウマいものはウマい。好きなモノを多めに食べるのも別段おかしなことではない。他人からとやかく言われる話でもない。

というわけで、最近の私はウニやイクラばかり食べている。確実にヤボだと言われるほどバンバン食べている。


昔だったら変な自意識が邪魔をして頼むにしてもチョットだけだったのだが、今やヘタすればそればかり食べている。

ヤボの極みである。

夏の盛りを過ぎると生イクラが出回る季節だ。どこの店に行ってもブリブリ食べてしまう。

先日も下町の某寿司店で、生イクラをツマミで冷酒をクイクイして、その後、軍艦握りでも4貫食べてしまった。

昔の私の自意識であれば許しがたいヤボさである。


こちらは目白にある「鮨おざき」での一コマ。オープンしてまだ2ヶ月だが、バタバタ感は無く、じっくりとウマい魚を食べさせてくれる。

ウニの品揃えにこだわりがある店で、たいてい4~5種類の極上ウニが用意されている。ウマいイクラとウニをツマミに様々な冷酒をカピカピできるのは最高だ。

種類や産地の違うウニを少しずつ味比べする。面白いもので醬油に合うウニと塩で食べた方がウマいウニに大きく分かれる。そんな発見が出来るのも「ウニ祭り」状態のおかげである。

先日は5種類のウニがあったので、ツマミで3種類、握りで2種類を食べた。

「ウニばかり食べるのはヤボ」という私の信念?からするとスーパーヤボ野郎だが、一応、産地と種類が違うからセーフである。

まあ、単なる言い訳だ。

お寿司屋さんには他にウマいものが揃っているのに、ウニ、イクラばかりに目が向くのは、この歳になってオムライスやクリームコロッケに大興奮するのと同じかもしれない。

要は大人としての自制心が弱ってきて、単なるワガママが加速しているわけだ。見方によっては立派な老化現象かもしれない。

歳を取ると子供に戻っていくと言われる。でも、たかだか50歳を超えたぐらいで“赤ちゃん返り”しているようでは問題だ。

そういえば、先日も何十年ぶりかで「ミルキー」と「チェルシー」を食べて物凄く美味しく感じた。

どうも最近は味覚の幼稚化が猛スピードで進んでいるような気がする。大丈夫だろうか。

2017年8月28日月曜日

リア充アピール


SNSの世界では誰もが「リア充アピール」に必死だ。善し悪しではなく、単純にそういう時代になったんだなあと思う。

私自身、このブログで日々雑多なことを書き殴っているので、世の中に溢れるリア充自慢をアーダコーダ言える立場ではない。

やれ、ヨーロッパで靴を買っただの、カリブの海は素敵だの、銀座のクラブですべった転んだの、見る人が見ればイヤミオジサンみたいだ。

とりあえず自分のことは棚に上げる・・・。

誰だって腐っている日々より充実している日々をアピールしたいのは自然なことだろう。

でも、あまりに「頑張っちゃってる感」が強烈だとゾワゾワする。無理したりウソをついてまでキラキラアピールするような風潮はブキミだ。

インスタ映えという言葉も飛び交っている。せっかくだから綺麗な画像を載せたいのは当然だ。でも、代行業者まで使ったり、それ用のセミナーまで人気だと聞くと何だか寒々しい。

マウンティング社会の象徴だ。もっと気を抜いてノホホンとしていたほうが楽しいのに実に御苦労なことだ。

視野が狭くて何事にも必死になることは若さの特徴だ。そんな若さゆえの情熱が変に力んだリア充アピールにつながってしまうのだろうか。

私がFacebookを始めたのは7年ぐらい前になるが、あの頃は良い意味で今よりもガサツだったと思う。

私の場合、同年代の男性ばかりとつながっているので“キラキラ攻撃”はさほど目にすることはない。

でも、Facebook上の「友達」がどこかの誰かの投稿に「いいね」をすると、その内容がいちいち表示される。そこでは結構なキラキラが溢れていて感心?する。

女子の自撮りもスンゴイことになっている。まさに命がけみたいな感じ。誰に何をアピールしているのか謎だ。美女だったら目の保養になるけど、、、まあそれ以上は言わない。

そんなことを50を過ぎた「古い人」が論評すること自体が筋違いなのだろうが、SNSのような世界はもっとユルい気分で向き合ったほうが賢明だと思う。

笑っちゃうようなドジ話や微笑ましい話、単純に嬉しかったことや悲しかったことを普通に表現すればいいのに「オッシャレ~!」を意識しすぎるとちょっと痛い。

見ているほうだって、高級フレンチのメインディッシュより、ゲテモノを食べちゃった武勇伝画像のほうがワクワクする。

ナイトプールで気取っている姿よりも洗濯機が壊れてコインランドリーで苦戦している画像の方が生々しくて楽しい。

まあ、あくまで個人的な意見だが、もっと「ヌルい感じ」が主流になって欲しいと思う。

人間の日常なんてそんなにキラキラしていない。キメッキメだとウザったい印象になっちゃう。

リア充自慢が時代を席巻しているのは、一種のブームだろう。ブームには終わりも来る。移ろいやすい世間の空気は、時代遅れになったものをカッチョ悪いものと位置づける。

ということは、遠からずキラキラのリア充自慢がカッチョ悪いものに変わるかもしれない。

そうなったら次に来るのは「自虐自慢ブーム」「ヘタレっぷりアピールブーム」だろうか。だとしたら面白い。悲惨ネタ、しょぼくれネタを競い合うようになったら、今よりSNSが面白くなるのは確実だ。

「2年前に賞味期限の切れたカップ麺を食べてみた」、「80過ぎのオバアサンに痴漢の濡れ衣を着せられた」、「オカマに追い回された」といったファンキーな話が中心になったら楽しいだろう。

画像だって同じだ。「「酔って転んで顔面を強打した流血姿」、「ゲリラ豪雨でおろし立てのスーツがぐちょぐちょになった画像」、「女子に逃げられてラブホをバックに困惑している自撮り画像」、「キメッキメで化粧してオシャレ全開だったのに鼻毛がドカンと出ちゃってた自撮り画像」あたりが主流になったら素敵だと思う。

2017年8月25日金曜日

付け合わせスパゲッティ


夏痩せする人がうらやましい。憧れる。今までの人生で夏に痩せたことは一度もない。私の場合、たいてい夏になると太る。

水ぶくれだろうか。そうでもない。暑いからイライラする。イライラすると脳が疲れる。疲れた脳は身体が血糖値不足だと錯覚する。だから食べたくなる。

冷やし中華もそうめんも、ツルツル入っちゃうから食べ過ぎる。おまけに腹持ちしないから割とすぐにお腹がへる。

暑いから普段は食べないアイスクリームやかき氷に手を出す。ワシワシ食べてしまう。口の中が甘くなるとしょっぱいもので口直ししたくなるから余計なものまで食べてしまう。

言い訳ばかりするのがデブの悪いクセだ。


先日、ドカ食いをした。男同士2名でバリバリ食べた。その時の伝票がこれ。人数は「2」なのに大量に注文した品が記録されている。

飲み物は別として、海老のカクテル、エビフライ。カツレツ、チキンコキール、チキンサラダ、タンシチュー、ナポリタン、オムライスである。

場所は銀座の老舗洋食屋「煉瓦亭」。洋食好きな私としては大量にあれこれ食べられたからハッピー全開だった。

男2人で夕飯を食べに行く場合、一般的には酒が基本である。だから居酒屋的な店が多くなるし、そうじゃなくても寿司屋や焼鳥屋のようなツマミ系?の店になる。

この日は中高年の分際で大食いの男性が一緒だったので、ついつい酒よりメシという流れになった。

意外と楽しかった。今ほど酒に馴染みのなかった若い頃を思い出した感じ。ひょんなことで気分が若返ることを再認識した。

「男の子の食事」といえばガッつくことが基本だ。洋食屋さんで“お子ちゃま的味覚”を刺激するようなメニューばかり注文するのは至福の時間である。




エビフライ、ナポリタン、オムライスである。普段、鮎だの松茸だの、ダシがどうした、旬こそ最高だなどと分かったようなことを書いている中高年にとっては、もはや禁断の味と表現しても良い。

私は結局こういうものが大好きだ。心がホッコリする。ニッポンの洋食屋さんのメニューなら取っ替え引っ替えしながら毎日毎日連続して食べられる。

可愛いコちゃんとムフフな場面を迎えた時とエビフライにタルタルソースを塗りたくっている時の私の顔はきっと同じだ。喜色満面ってヤツだ。

さて、この日、すべての料理に満足した一方で、今後の私の食生活を左右しかねない「危険なモノ」の存在に心を奪われた。

「付け合わせスパゲッティ」である。画像には撮っていないが、メイン料理の横にチョコっと添えられるアイツである。


思い起こせば私はアイツが昔から好きだった。でも、好きとか嫌いだのを考える相手ではなかった。思い入れを感じたことはなかった。

この日、何かの付け合わせにアイツがいた。色も味も薄い。常温だしボソッとした食感でウマいなあと感じる味わいではない。

でも止まらない。大事に大事に少しづつ食べた。ちょこっとしか無いから何だか愛しい。やる気のない雰囲気、いや、はかなげな感じが魅力的だ。

そういえば、これまで長年生きてきた中で、付け合わせスパゲッティを食べ残したことはなかったかもしれない。洋食屋ではもちろん、いろんな弁当に入っているヤツも必ず大事に食べた。

崎陽軒のシウマイ弁当に入っている甘いタケノコと同じで、アイツがいることで全体がキリっと締まるような気がする。

でも誰にも注目してもらえない悲劇的な存在がアイツだ。決して自己主張することもなく、強めに味付けしてもらえることもない。ただただ、皿の上の賑わいのためだけに存在する。

炭水化物が好きなタンスイカブラーとしてはアイツを日陰者にしておくのは忍びない。

ネットで調べたらアイツのファンは意外に多いみたいで、レシピもたくさん紹介されている。今度作ってみよう。

何はさておき、まずはアイツの地位向上を考えていきたい。だいたい正式な呼び名が存在しないことが可哀想だ。

ナポリタンと呼ぶには何かと足りないから一文字減らして「ナポタン」や「ポリタン」はどうだろう。ちょっと可愛いイメージで子どもを中心に人気を集めそうだ。

まあ、そんなことより、近いうちにどこかの洋食屋さんに相談して、アイツを付け合わせではなく、ちゃんとした一皿として提供してもらうことを実現させたい。

一皿まるごと全部アイツだ。想像するだけで興奮する。具も無ければ色も薄いアイツがドッサリ盛られているわけだ。

半分ぐらい食べたら飽きちゃいそうだ。それでもガッついて食べてみたい。

2017年8月23日水曜日

モンクストラップ


靴好きを自認する私にとっては「日本人にヒモ靴は合わない」という真理?は悩ましい問題である。

正統派のコンサバ靴といえば、当然ヒモ靴である。よく分からないがそれが常識である。

ところが、日本人の日常は家の中はもちろん、外でも靴を脱ぐ場面が多い。料理屋さんやお座敷スナックだって靴を脱いで上がる。

外食分野に限らず、たとえば街のお医者さんに行っても靴を脱いでスリッパというパターンは珍しくない。

当然、いちいちヒモをほどいたり結んだりしないスリッポンの靴の方が合理的である。

でも、ダンディーぶって生きている私としては痩せ我慢して正統派のヒモ靴を愛用している。好きで履いているクセに時々「なんだかな~」とタメ息をついてしまう。

靴を脱いで座敷に上がってしこたま飲み食いしたとする。帰り際、立ったまま上半身を折り曲げて靴ヒモを結ぼうとするとコケそうになる。おまけに姿勢を戻すとクラクラする。

ドカっと腰をおろして紐を結ぼうとしても、ふくらんだ腹が圧迫されてウゲっとなる。そういう時に限って老眼が邪魔をして何度もヒモを結び直すからウゲウゲである。


スーツにスリッポンという組み合わせに何となく抵抗感があるので仕方がない。だからモンクストラップの靴を履くと少しホッとする。

バックル付きの靴であるモンクストラップの語源は教会の修道士(monk)の靴に由来する。信心深い私にもうってつけである。

もちろん、モンクストラップだって、しっかりとバックルを締める作業は紐を結ぶのとたいして変わらない。

ただ、ズルしてバックルベルトを締めなければスルッと足が入る。反則ワザの極みだが、時々そういうズボラな靴の履きかたをしている。

上の画像はスペイン靴の「ヤンコ」のモンクストラップだ。ヤンコの靴は造りもしっかりして人気だが、個人的には色気?が足りないような気がする。

この靴もそんな意味不明な理由によって我が家のシューズクロークでは“3軍”に降格した。誰にも会う予定が無い日とか、真っ直ぐ帰宅する日に限って履くことが多い。

バックルの位置が上の方にあるので、だらしなくベルトを外しても、座っている時以外はズボンの裾がそのヘタレた姿を隠してくれる。

不思議とそういうだらしない履きかたをすると1日中気合いが入らない。やはり外に出たら7人の敵がいる男としては、足元がキリッとしていないとダメである。

でも、お疲れ気味の中高年生活をしているとグダグダした感じで過ごしたい時もある。そういう時はモンクストラップをだらしなく履いてしまう。

そういうカッチョ悪いことは内緒にすればいいのに、最近このブログのネタが枯渇しているので、ついつい恥をさらしている・・・。



さてさて、黒い靴もバーガンディーの靴もモンクストラップは揃えているが、伊達男を気取りたい私としては、ベルトが二つある「ダブルモンク」がお気に入りだ。

ベルトなんて1カ所あれば充分なのに、あえて2カ所だ。ムダこそが美徳である。このムダのおかげで「足元にちゃんと意識を向けている男」という自意識が成立するような気がする。

ダブルモンクでも座敷飲みの後、酔っ払って上に位置する方のバックルを外しただらしない状態で履いてしまうことがある。その靴がお気に入りの靴だったりすると心の中で葛藤が生まれる。

「酔っ払っても足元はシュっとしてろ!」、「てやんでい、エドワードグリーンの靴がナンボのもんじゃい!」という「真面目」と「ヘタレ」が脳の中でせめぎ合う。

そういう時、やはり“1軍”に在籍している大事な靴であれば、「真面目」が「ヘタレ」を制圧して、フラフラしていてもバックルをしっかり締める。

2軍、3軍の靴だと扱いがぞんざいになってしまう。バックルを外したままのダメオヤジ状態を受け入れてしまう。

身につけるモノで気持ちの入り方が変わるのは老若男女をとわず一つの真理だと思う。高い安いに関係なく自分が愛着を感じているモノを身につけることは気分をアゲておくためには必要だろう。

中高年になると放っておけばズボラ全開状態でもヘッチャラになる。鈍感力も結構だが程度問題だ。若い時ほど身だしなみに敏感になる必要はないが、ズボラ過ぎるのも情けない。

少しぐらい自意識過剰と言われようともそれなりに自意識を持つことを忘れてはダメだと思う。

モンクストラップのベルトは、いつも私にそんなことを思い起こさせてくれる。

とかいいながら、最近はズボラ状態が増えた。もっともっと1軍入りするような靴を新調すべきなんだろうか・・・。