2016年9月23日金曜日

ゾワゾワする言葉


リテラシー、アカウンタビリティー等々、ビジネスの世界で飛び交う外来語、カタカナ言葉がちょっと苦手だ。

そういう私自身も気付かぬうちにそれっぽい言葉を使っているが、せいぜい20年前から浸透しているようなトレンドとかバーチャルとかバリアフリーとか、ソープランド(これは違うか)あたりに止めている。

仕事先の関係者から面と向かってアセスメントだのコンセンサスだのアジェンダとか言われると何だかゾワゾワした気分になる。

私が社会人に成り立ての頃は、今のようなカッチョ良さげなカタカナ用語はあまり目立っていなかった。それよりも日本語自体を難解な表現にしたがる傾向が強かったと思う。

「幸甚に存じます」「当該案件については」「包括的に考慮する」といった感じだ。

今でも普通に使う言い回しだが、若い頃はこういう馴染みのない言葉を使うと「賢い人」になったような気がした。

いま思えばマヌケだが、ある意味可愛いかったのだろう。

島国根性のせいで外来語をどこか格好良く感じるのが、われわれニッポン人のシャバい部分である(「シャバい」が分からない人はおそらく30代以下の若い人かと思われる)。

戦争中は「敵性語」が使えなかったせいで野球の審判はストライクを「よし」、ボールを「ダメ」、アウトを「それまで」と叫んでいたそうだ。確か学校で習った話である。

そんなバカみたいなトラウマ?のせいもあって「カタカナ=お洒落」的なDNAが日本人全体に染みついているのかもしれない。

仮に「敵性語」が使えなかったら毎日あらゆる場面で厄介だろう。「コピー頼むよ」は「複写願います」だし、「メールしておいて」は「電子手紙の送信乞う」になってしまう。

昔、さんまやタモリが英語を使わずにゴルフをするテレビの企画があったが、アレは結構おかしかった。まともに会話が成立しない。

https://www.youtube.com/watch?v=WhXj-5ZKK1E

ちなみに銀座のクラブだったら「倶楽部」で済むが、ホステスさんは「社交嬢」、シャンパンは「発泡葡萄酒」になってしまう。

チャンスボトルは「空瓶好機」だし、アフターに行くのも「閉店後交流」になってしまう。実にメンドーだ。

なんだか話がズレてしまった。

カタカナ言葉に話を戻す。たとえば「マンパワー」や「スキル」なども、要はただの「人材」であり「技術」のことでしかない。なぜかカタカナ語にして得意になって語る人が多い。

なんとなく格好つけたい気分で言葉を言い換えるのなら御愛敬だが、言葉の言い換えによっては物事の本質を隠す目的があるから厄介である。

統制や統治だと高圧的なイメージがあるから「ガバナンス」に言い換えるようなパターンだ。

簡単なことを難解に見せようとする一種の見栄ならまだしも、時にはタチの悪いゴマカシもある。売春を援助交際と言い換えるようなマヤカシだ。

カタカナ言葉からは逸れるが、典型的な例をあげてみる。

事故のことを「事象」、老朽化を「高経年化」、汚染水は「滞留水」。これらは“原発業界”の用語である。考えてみればヒドい言い換えである。

以前、作家の村上春樹さんが原子力発電を「核発電」と呼ぶべきと提唱していたが、まったくその通りだと思う。よく考えれば「原発」という言葉自体も実に分かりにくい。うさんくさく思えてくる。

外来語をカタカナ言葉にして使いまくる一方で、外国語に直訳できない表現が多いのが日本語の特徴である。独自の文化を背景に発達した日本語は言葉の組み合わせによって意味や意図が微妙に変わる。日本人からみても難しい。

わが国にはかつて、全滅を「玉砕」、撤退や敗走を「転進」と言い換えて深刻な事態を隠そうとした黒い歴史がある。姑息な言い換えは悪質な嘘になることもある。

言い換えの裏側に潜んでいる思惑には気をつけたいものだ。

0 件のコメント: