2016年5月30日月曜日

タラコの話 めんツナかんかん


イクラやキャビア、カラスミなど魚卵界?にはスターが多い。キャビアなどは世界中で「黒いダイヤ」と呼ばれて珍重される。

魚卵をご飯に載っけて食べるのが好きなドメスティックな私としてはキャビアにあまり興味がない。だったらタラコのほうが嬉しい。

ということで、今日はタラコの話。


一部では「赤いダイヤ」と呼ばれているタラコだが、イクラやカラスミ、数の子に比べると何となく不当に低く評価されている気がする。

本来なら「ニッポン魚卵界のエース」にふさわしい存在なのだが、昭和の頃から手軽な値段でどこでも売っていたせいか、有り難みが薄れてしまったのだろう。

王選手の陰に隠れた張本サンみたいなものか。堀内に対する高橋一三みたいなものだろうか。全然違うか。

さて、タラコである。生タラコといっても生のまま塩漬けされるのが一般的だ。専用のタレに漬け込まれるものもあれば、わさび漬けのようなパターンもある。

上モノの生タラコを酢に浸して食べるのもオツである。私自身、子どもの頃には「酢タラコ」でドンブリ飯をかっこんでいた。


軽く炙ったタラコもウマいが、安い弁当に入っているような火を入れ過ぎちゃったヤツはダメだ。

もしかすると焼き過ぎてマズい「ウェルダン・タラコ」のせいでタラコの地位が低くなったのかもしれない。

確かにボソボソ、ゴリゴリ、ゴワゴワしたダメダメな焼きタラコも世の中に存在する。ああいう感じのものばかり食べていたらタラコが嫌いになってしまいそうだ。

上質な生タラコに頑張ってもらって魚卵界での地位を向上させてもらいたいものだ。

タラコにとって不運だったのが辛子明太子の台頭である。もともと「タラコ」と「明太子」は同じものである。普通のタラコを地域によっては明太子と呼んでいたわけだ。

ところが、グイグイ人気が出てきた辛子明太子は、いつのまにか「辛子」が省略されて単に明太子と呼ばれるようになった。

今ではピリ辛のタラコを総称する呼び方として定着。すなわち普通のタラコの名称が乗っ取られてしまったようなものである。

ウンチクを書いたことだし、ここから先は私も辛子明太子を単に明太子と書くことにする。

東京出身のせいもあって、タラコと明太子は私にとって似て非なるモノだ。いや、似ているとも思わない。別モノ。どちらも好きだが、タラコは単体で食べたいのに対して明太子は他のモノと和えて食べたくなる。

上モノと言われる生タラコは、一粒一粒に存在感があるのに官能的なネットリ感も楽しめる。そのままストレートにウットリしたくなる。

かたや、明太子はキュウリの千切りや白髪ネギあたりと和えるなど、他の素材とミックスした方が辛味が中和されていい感じだ。そのままだと強すぎる。


この画像は高田馬場・鮨源で注文する明太子とたくあんの巻きもの。たくあんの微妙な甘味が明太子とコラボ?してなかなか美味しい。食感もメリハリが出る。

それにしても、タラコを用意しているお寿司屋さんが少ないことが私にとっては謎である。明太子はあってもタラコがないパターンがほとんど。東京の特徴なのだろうか。

タラコの旬は冬だからか。いや、生といっても塩漬けだし、イマドキの冷凍技術のおかげで一年中ウマいタラコは味わえる。

イクラが一年中出回っていることを思えば、ウマいタラコだってもっとスター!扱いされるべきだと思う。

ちょっと話が変わる。

先日、「めんツナかんかん」なる缶詰の存在を教わった。「明太子とツナの缶詰」という意味である。



明太子業界大手の「ふくや」が販売している商品である。ツナに明太子が和えてあるイメージだが、実際には明太子を作る際の調味液でツナを味付けした一品だ。

最近の缶詰はウマい商品が多いが、これもかなりのヒット商品らしい。想像していたより美味しかった。思ったよりアッサリしているのが嬉しい。そのままで酒のツマミになるし、ご飯に載っけて食べてもウマい。

マヨネーズをトッピングしてもイケそうだし、明太子そのものをちょろっと混ぜても良さそうだ。冷やし中華に載っけてもいいかもしれない。

ツナ缶の応用編といえば、シーチキンで有名な「イナバ」の人気商品「ツナとタイカレー」が有名だ。あれも初めて食べた時には美味しくてビックリしたが、「めんツナかんかん」もなかなかウマい。オススメだ。

今日は、タラコの地位の低さを嘆くつもりだったが、最後は缶詰の話になってしまった。

たらこクチビルの女性とキスがしたいというオチを考えていたのに残念である。

2016年5月27日金曜日

下着の話


下着にこだわるのは女性の特権だろう。男の場合、かなりテキトーである。私の友人にも真っ赤なTバックでキメている?オジサマがいるが、そういう人は極めて少数派だ。

女性なら気分によってとっかえひっかえ下着を選ぶ楽しみがあるらしい。男には分からない感覚だ。

女性の下着は、色や形、素材に至るまで実にさまざまだ。凝り出したらキリがなさそうだし、アレコレ試すのはきっと楽しいだろう。

だったら私にはナゼ見せてくれないのか!!

という根本的な問題はさておき、私を含めたアホな男達は女性の下着の話題が大好きである。

パンチラという話題だけで2時間は酒が飲めるし、たかがブラジャーの肩ヒモが見えたぐらいで少し心が動いたりする。


高級ランジェリーのラペルラのホームページから拝借した画像だ。やはり美しいものをより美しく見せる効果があるから、女性の下着には独特な存在感がある。

女性の下着は「美しいものをより美しく」という使命があるのに対し、男の下着は「美しくないものを隠す」のが役割かもしれない。

その証拠に残念ながら男のパンチラが話題になることはないし、女性達が男の下着の話で酒を飲むことはない。

だいたい、下着泥棒だって男の専門領域である。ベランダに干してある男の下着を見てドキドキする女性は皆無だし、盗もうと考える人などいない。

いたらゼヒ連絡して欲しいものである。

いわば一種の男女差別みたいなものだ。男の下着がちょっと可哀想である。


その昔、ブリーフかトランクスしか選択肢がなかった男の下着だが、今はその中間のようなボクサーブリーフが人気だ。

私の下着も多くがこのスタイルである。ちなみにこの画像のモデルは私だ。日頃の鍛錬の成果もあって締まったボディーである。

大ウソです。すいません。そんなウソを信じる人はこの地球上に存在しないと思うが、あくまでネットでパクってきた画像だとお断りしておく。

エロ動画に出てくる男優もボクサーブリーフが多い。やはりダランとしたトランクスでは雰囲気が出ないのだろう。

AV男優ならビキニブリーフでクネクネしてほしいものだが、最近はボクサー系が主流みたいだ。ちょっと不思議な気がする。女性ウケがいいのだろうか。

さてさて、男女がいざ「接近戦」を繰り広げる場合、相手の下着を誉めたり愛でたりするのは男だけである。女性が男の下着に関心を示すことはない。

くたびれた下着だろうと新品の勝負下着だろうと関心を寄せられないのなら男の下着は気の毒である。

私の場合、下着は1回履いたらすぐに捨てる。だからいつでもカバンの中に換えを用意している。

大ウソです。ホントすいません。

ヨレた下着は問題外だが、バリバリの新品というのも何だかカッチョ悪い気がする。というわけで私の場合は常に「適度な状態」の下着で合戦に望むことにしている。

どうでもいい話でスイマセン。

まあ、「適度」といっても下着をマメに買いに行くような性格ではないので、見方によっては常にヨレた下着を愛用しているのかもしれない。

私の場合、変に保守的というか、偏屈だから、わざわざ下着を買いに行くという行為が苦手だ。

だから下着はネットでまとめて買う。「デブの証拠」であるXLやXXLの商品をレジに持っていくのが恥ずかしいわけではない。試着しないようなものを店頭で買うのが面倒だという理由もある。

でも、靴下はわざわざデパートに買いに行くから意味不明である。

下着の上の方、すなわち上半身用の肌着はこれからの季節、男達を悩ませる。

スーツにワイシャツだから暑くて仕方がない。炎天下に立っていたら1~2分で汗が出てくる。

肌着に高いお金を出すのはシャクだが、それ相応の値段のものは汗をかいてもサラッとしていて、汗臭さも抑える加工がしてある。


いろいろ試したわけではないが、グンゼのSEEKという商品が私のお気に入りだ。そこらへんの安売り店で売っている肌着より高いが、高機能で快適だ。

ワイシャツの第二ボタンまで外しても肌着が見えないデザインのシリーズをまとめ買いしている。ノーネクタイの季節はずっとこればかり。

画像の通り、肌着姿でウロウロするにはカッチョ悪い。ムフフな場面?を迎えても丸首シャツの肌着ならワイシャツを脱ぎ捨てた後でもカッコがつくが、こっちだとそうもいかない。

しかし、ムフフな展開になることなど週に1~2回である。ウソです。滅多にない。そんなことを想定して肌着を選ぶわけにもいかない。快適さが一番である。

まあ、女性に人気のヌーブラだって、服を脱いでアレだけがペタっと張り付いている姿は結構ヘンテコである。

お互いヘンテコな姿を見せ合うことが「仲良しの証し」なのかもしれない。

なんだか、トンチンカンなまとめかたになってしまった・・・。

2016年5月25日水曜日

銀座「久保田」 飲み比べ


相変わらず外食ざんまいの日々だが、最近は知った店ばかりに出没して新規開拓にあまり興味が湧かない。こんなことでは自分の感度が鈍りそうである。

というわけで、久しぶりに初訪問の店に行ってきた。銀座8丁目に昨年オープンした「久保田」がその店。

日本酒の久保田である。酒造メーカー直営の人気店らしい。ありがちな日本酒居酒屋かと思っていたのだが、ちゃんとした日本料理店という感じ。

とはいえ、照明がかなり明るめで、しっぽり系ではない。不倫関係のカップルには似合わない感じ。高級和菓子店が経営するカフェのようなモダンな雰囲気。

オジサマ族よりも余裕のあるマダムがターゲットなのだろうか。日本酒がウリの店なのに禁煙だったからガッカリ。


いつの頃からか、ウマい日本酒の代名詞になったのが久保田である。私が日本酒を勉強?していた25年ほど前には有名ではなかった。

やはり企業努力とイメージ戦略と世間の風向きが大きいのだろう。30年以上前に多くの人が熱狂した越乃寒梅がちっとも話題にのぼらなくなったように四半世紀も経つと世間の常識は変わる。

私が日本酒と真面目に向き合ったのは、社会人になって割とすぐの頃だ。国税庁や国税局の記者クラブに出入りしながら「鑑定官」という人々と仲良くなったことがきっかけ。

お酒は税金の塊という側面もあって、監督官庁は国税庁である。全国の国税局に酒関係の鑑定官室がある。そこでは一般的にイメージされる税務職員ではなく、農大を出たような技官の人達が日々活動している。

鑑定官室の総元締めのような醸造研究所(広島)も当時は醸造試験所という名称で都内にあった。筆の立つ技官に依頼していた酒のコラムの担当編集者として暇があれば一杯ひっかけに、いや、打ち合わせに行った。

査察や資料調査課あたりの猛者達にあしらわれて取材が出来なかった時でも鑑定官の皆様は優しくしてくれた。若造の私が知らない酒をしょっちゅう味見させてくれた。

ヘロヘロになりながら様々なことを学んだ。本醸造だ、吟醸香だ、精米歩合だ、等々、身体で?覚えた。実験用のようなスペシャルな特製大吟醸のウマさに驚いたこともある。

随分と話が逸れてしまった。

で、若い頃に学んだのは、日本酒は思っていた以上に劣化が早いということ。開栓したらさっさと飲むに限る。これが大原則。当たり前なのに、なかなか守られていないのも現実だろう。

シケた飲み屋でいつ開けたのか分からないような一升瓶の底に残った酒を飲まされたってウマいはずはない。貴重な銘柄だろうが幻の酒だろうがそんなことは関係ない。時間が経ったら味は変わる。

一部の店ではグラス売りの酒を注ぐたびに一升瓶の空気抜きをして保管している。そんな「シュボシュボ管理」が徹底されているのが理想だが、なかなかそこまで手が回らないのが実情である。

そういう点では酒造直営の「久保田」はバッチリだろう。いかに美味しく飲ませるかという部分に細かく配慮しているから日本酒好きの人だったら素直に楽しめると思う。


萬寿や千寿など様々な種類がある久保田だが、この店では少しずつ飲み比べできるセットが用意されている。

一通りのラインナップの飲み比べだけでなく、純米酒飲み比べ、吟醸酒飲み比べなど、油断していたらベロベロになりそうだ。

料理は懐石コースが中心だが、単品メニューも豊富に用意されている。酒に合うようなものばかり。ウッシッシって感じだ。


新潟の銘酒だから料理もそっち方面の郷土色が強い。珍味類も豊富で味付けも丁寧。やっつけ仕事のような居酒屋的な店とは一線を画している。

魚貝中心だが、肉類も酒粕漬けの焼物があったりして飽きさせない。繁盛しているのも納得だ。


すっかり高値が当たり前になったのどぐろもかなり立派なサイズ。焼き方も丁寧でこれなら奮発したくなる。

ウマいツマミにウマい焼魚にキチンと管理された日本酒である。コロっと酔っ払ってしまう。

保冷温度を変えた「萬寿」を飲み比べるセットが運ばれて来た頃には「何でもかんでもウマいなあ~」状態だったから違いがよく分からなかった。10℃と20℃それぞれの違いを楽しめるらしいが、結論としては両方ともウマかったとしか言えない。

使い勝手の良い店だと思う。男同士でも女同士でもデートにも使えそうである。

つくづく、明るすぎる照明とシッポリ感が感じられない雰囲気が残念だと思う。

2016年5月23日月曜日

コメは悪くないのに・・・

炭水化物がどうした、糖質制限がどうちゃらと言われるようになって久しい。いつのまにか我が愛するコメも悪役みたいな言われようである。

米食文化ニッポンの危機である!?

私だってダイエットの時はコメを食べずにカニばかり食べるが、それでもコメを崇拝している。

世界から猫が消えてもちっとも困らないし、かえって有難い(ゴメンナサイ)が、世界からコメが消えたら私は生きていけない。

そりゃ糖質制限もちゃんと意味はあるのだろう。でも、あまりに神経質に騒ぎ過ぎる人が多い。

「そんなアナタもたくさんお米を食べて大人になったんですよ」と優しく諭したくなる。

日本人は3千年以上前の縄文時代からコメを食べていたそうだ。今になってコメを敵視するのはDNAに対する挑戦である。ちょっと大袈裟か。

私が小学校の頃は、アメリカの押しつけ政策のせいで給食にコメが出ることはほとんど無かった。ウマくもないコッペパンが主食。

子供心になぜコメが出てこないのか不思議だった。戦後30年ぐらい経った高度成長期だったから食糧事情が悪かったわけではない。

アメリカに買わされた小麦の消費が優先されていたという理由を大人になってから知った。物凄く腹立たしかった。

当時からコメが大好きだったから、敗戦という事情をひきずってコッペパンばかり食べさせられたことがいまだに腹立たしい。食いものの恨みは中々しつこい。

日本人はコメ。単純な言い方だがそれが普通である。

もちろん、食べ過ぎは身体に悪い。飽食バリバリの今の日本ではすべてが過剰摂取気味だ。別にコメや炭水化物のせいではない。何でもかんでも好きなだけ食べられちゃうことこそが罪であり敵視すべきことである。

コメは決して悪くない!

などとエラそうに語っているが、お気に入りの寿司酢で寿司飯を作ると一気に2合も食べちゃう私のような食べ方はダメだろう。

先日、実家で食べたコメの味に満足できなかったので母親宛に新型の炊飯器を送りつけた。定価25万円の商品が半額セールで買えたから助かった。

ウソです。もっと安い炊飯器を送った。
そんな高いものは買いません。

ガス炊きにはかなわないとはいえ、イマドキの電気炊飯器だって充分美味しいご飯が炊ける。

マトモな炊飯器、マトモなコメ、そして炊飯器にセットする際の「真剣な気持ち」さえあれば美味しいご飯を味わえる。

私が自炊する時は、水はメモリ表示の8掛けを目安にしている。たいていの炊飯器は水量を目盛り通りにすると柔らかすぎてダメ。

9掛けでやや硬め、8掛けで硬めが好きな人が嬉しい感じに炊きあがる。個人的な意見です。

コメを磨ぐ際もやり過ぎに注意である。精米技術が向上した昨今のコメはあまり丁寧に磨ぐと旨味が消えちゃうので、割と大ざっぱに済ませても問題ない。

ちなみに、ここ1年以上、家では山形の「つや姫」ばかり食べている。硬めに炊いた「つや姫」のウマさを知ってから他の銘柄を試す気が無くなった。

と、いっぱしの書きぶりだが、外食する際にはコメの銘柄など気にせず、極論すれば硬いか柔らかいかという大事なこだわりも忘れてムホムホご飯をかっ込んでいる。



半年に一度ぐらい銀座にある維新號新館で「一人フカヒレ」という贅沢なディナーを楽しむ悪いクセ?があるのだが、デカいフカヒレの姿煮を独占しながら紹興酒をあおった後は、決まって白いご飯を頼む。

シメはフカヒレご飯である。コメが加わることで風向きが変わる。それまで上質なツマミだと思っていたフカヒレが一気に「おかず」に変化する。


こちらは豚丼。先日、釧路空港で食べた一品。空港の食堂だから期待せずに注文したのだが、非常にウマかった。大満足。空港値段だったのは仕方がない。

これこそコメ抜きには成り立たない食べ物だ。甘めで濃い味の豚肉を単体で食べても飽きるが、コメが参加することで絶妙なバランスになる。

コメ愛を語り出すとキリがない。

いずれにせよ、一時的に体調管理のために制限をするのは分かるが、常日頃から糖質だの何だのと神経質になってコメを悪者扱いするのはトンチンカンだと思う。

ボクサーやモデルならいざ知らず、普通の人は普通にコメを愛したいものだ。

2016年5月20日金曜日

一幸庵 リンツカフェ コンビニスイーツ


最近、なんとなく酒量が減った。土日に一滴も飲まないこともある。飲み屋に行っても以前の半分ぐらいの量で満足する。

体調は悪くないのに不思議である。

その代わりと言っては何だが、甘いものをウホウホ食べる機会が増えた。一体、私の身体に何が起きているのだろう。

もともと節操がないから、酒も甘味も好きだ。昭和のオッサンのように「甘いものなんか食えねえよ」と男臭さを演じてみたい気持ちもあるが、お気に入りの甘いものを前にすると目尻もヨダレも垂れる。


わが家の徒歩圏内に知る人ぞ知る和菓子の名店がある。丸ノ内線茗荷谷駅から程近い「一幸庵」だ。

何を食べてもウマいが、何といっても名物の「わらびもち」が最高だ。一口食べただけで誰もが顔面崩壊、驚天動地である。

松田優作扮するジーパン刑事が殉職する際の名セリフ「何じゃ、こりゃ~」って感じである。


画像はネットからパクりました。訴えたりしないでください・・・。

ここのわらびもちは美味しいなあと感じる前にとりあえずビックリする。食感の素晴らしさを文章でうまく表現できないのがツラい。

「ぷるぷる」ではなく「ふるふる」、いや、「ふりょひりょへろん」って感じである。
分かっていただけるだろうか。ちっとも伝わらない表現で恐縮です。

遠くからでも買いに行く価値はあると思う。


続いてはロイズの生チョコレート「抹茶」バージョンである。いまや北海道ブランドとはいえないほど世の中に浸透している。ネット注文すれば手軽に買える。

数多い生チョコのラインナップの中でも「抹茶」がもっとも大人向けだと思う。コーヒーや紅茶ではなく、日本茶びいきの私にとって嬉しい味わいだ。

職場での午後、イライラ気分を鎮める時にも甘いものが食べたくなる。わらびもちや生チョコは普段手元にあるわけじゃないから、コンビニスイーツの出番である。

コンビニの場合、「和系」はイマイチだ。洋菓子系、クリームっぽいクドいラインナップに結構ウマい商品が多いと思う。


このところ私がハマっているのがファミリーマートの「くちどけ贅沢プリン」だ。コンビニで売っている一般的なプリンよりも高いし、量も少ない。でも逆にそこに惹かれてしまう。

プリンのカラメル部分は不要だと主張し続けている私の市民運動の成果だろうか、この商品はカラメルソースが別袋に用意されている。すなわち余計なソース抜きに「本体」だけを楽しめるのが良い。

濃厚なのに食感ははかなげで、一口食べた瞬間に気持ちが穏やかになったようにフワンとなる。オススメです。

一応「富豪」を目指す私としては、話のシメがコンビニネタではダメである。ちょっと高級路線の店のことも書いておこう。

若者が気軽に行けないような値付けで高級路線を邁進するのが「リンツ・ショコラカフェ」である。


銀座店の場合、7丁目という立地のせいか、オネエサマ相手に鼻の下を伸ばしているヒヒオヤジ向けに他の店舗より価格が高く設定されていると聞いたことがある。

この画像の一品も結構な値段だった。街の食堂ならレバニラ定食に餃子を追加して生ビールまで注文できちゃうぐらいの値段だった。

個人的にはそんなにウマいと思わなかったのが正直な感想だ。やはり、高級路線を求めるなら帝国ホテルなど老舗高級ホテルのカフェレストランを攻めた方が確実だと思う。

とか何とか言いながら、カラオケボックスに行けば、得体の知れない「ハニトー」を当たり前のように注文してムホムホとハシゃいでしまう私である。


そんなものである。甘いモノが食べたい時は、結局、甘けりゃ何でもアリである。つくづく糖尿病家系ではないことを有難く思っている。

2016年5月18日水曜日

なぜ半袖を着ないのか


そろそろ暑い季節が到来しそうだ。ネクタイともしばしお別れの季節である。

お役所が音頭を取ってクールビズを言いだしてから10年。夏場のノーネクタイがすっかり定番になった。

社会人に成り立ての頃、夏場のネクタイに慣れなくてホトホト困ったことを覚えている。大人達はよくもまあ拷問みたいな格好で夏場を過ごしているもんだとゲンナリした。

ここ10年か15年ぐらいで夏の暑さの質が変わった。昔は今ほど殺人的ではなかった。熱中症という言葉も聞かなかったし、学校にエアコンが設置されていることもなかった。

もともと日本の夏にスーツにネクタイというスタイルは合わないから、ノーネクタイの一般化は有難いことだ。


その昔、省エネルックという謎めいた格好を流行らせようというヘンテコな陰謀があったが、誰も相手にしなかったのには笑えた。そりゃあ無理がある。今は亡き大平さんも変なカッコさせられて気の毒だった。画像はネットから拝借しました。スイマセン。

さて、スーツにノーネクタイとなると、それ用のワイシャツを用意することになる。一般的には通常より襟を高くしたものを着ることが多い。

俗にドゥエボットーニと呼ばれるスタイルだ。直訳すれば「二つボタン」である。要はシャツの一番上のボタンをしめる箇所がボタン2個分の高さになっているという意味合いだ。

高い襟がとっちらからないようにボタンダウンやスナップダウンが定番。私も妙に襟の高いシャツを毎年のように馴染みのテーラーさんに注文している。

ノーネクタイ用だから夏用のシャツである。にもかかわらず「スーツの下のシャツは長袖」という呪縛?のせいで半袖は一枚も持っていない。

オーダーシャツだから、半袖だろうと七分袖だろうと私の好きなように注文すればいいのに常に長袖である。



私が決断さえすればノースリーブだって作れるのに毎年毎年、あと一歩の勇気が出ずにノースリーブビジネスシャツは実現していない。

「スーツの下に着るシャツは長袖じゃなきゃダメ」というのは世界的なルールである。理由など知らない。おそらくスーツの袖からシャツの袖が少し見えるスタイルを維持するためだろう。

まあ、わからなくはないが、気が狂ったような日本の夏の暑さの前では、そんな常識にとらわれているのはツラい。

実際、私も長袖のシャツの袖を3回まくって肘の辺りでまとめていることが多い。面倒だからそのままスーツの上着を羽織ることもある。当然「袖問題」は“ルール違反状態”である。

袖問題にキチンと対処できないならシャツだって思い切って半袖にすればいいのに「スーツの下に着るシャツは長袖」という呪い?のせいで、バカの一つ覚えのように長袖しか着ない。

結局は袖をまくっちゃうわけだからトンチンカンな話である。

思えば、高校生の頃も夏になっても半袖ワイシャツを着ないで長袖シャツの腕まくりスタイルで過ごすことが多かった。

理由などない。二の腕に彫り込んだ龍の入れ墨(ウソです)を隠そうとしたわけでもない。何となくその方がカッチョいいと思い込んでいたからだ。

今でこそ長袖シャツを着るのは、あくまでスーツのせいだが、ひょっとすると10代の頃のような「カッコつけ精神」を引きずっているのかもしれない。

袖を3回折り返したら肘の付近にはシャツ3枚分の生地があるわけだ。シャツを3枚も重ね着していたら暑いのも当然である。

痩せてもいないのに痩せ我慢である。

今年こそテーラーさんに薄い生地の半袖シャツをオーダーしようか。はたまた禁断のノースリーブを注文しようか。

本音ではそうしたいのだが、長年のこだわりを捨てるのが何となく怖い。それをきっかけにまるでダムが崩壊するかのように自分の身だしなみに対する気持ちが一気にグータラ方向に向かいそうである。

それにしても、たかだかシャツの袖の長さでアレコレ思い悩んでいるんだから、私の平和ボケも相当なものである。

2016年5月16日月曜日

ダウンちゃんとダメパパ


ここ2~3ヶ月、やたらと子ども達に会っている。それまでも制限されていたわけではないが、思うように会えなかった時があったことを思えば好循環である。

理由はいろいろある。そのあたりの背景に触れるとカドがたつので書かないが、とりあえずハッピーなことである。世の中に大勢いる単身赴任のお父さんなどより確実にしょっちゅう会えている。




私が住むマンションに泊まりに来ることも多い。そういう時はいつにも増して「ハッスル父ちゃん」になってしまう。いつもヘトヘトになる。困ったものだ。

最近は、娘からも私の頑張りすぎを注意される。心配もされてしまう。情けない話である。でも、妙に頑張ってしまうのが私の悪いクセだ。

自分の子ども相手に気を遣って過ごすのだからバカみたいだ。

「来て良し、帰って良し」という言葉がある。孫が訪ねてきた際の爺さん婆さんが決まって口にする言葉である。ハッスルし過ぎてクタクタになる私もチョッピリ共感する。

いや、やっぱり帰っちゃうと淋しい。でも、ちょっとホッとする気分もある。それが正直な感覚だが、ホッとしちゃう自分のことをダメ人間だ、父親失格だなどと考え過ぎてウツウツする。

結構なバカである。

なんであんなに頑張るのだろう。きっと見栄を張っているのだと思う。

パパはくすぶらずに元気に暮らしているぞ、パパはお前達のことが何より大事なんだぞ、パパと一緒だと楽しいぞ、といったアピールに必死なのだろう。我ながら御苦労なことだ。

さすがに他人行儀ではないが、娘の前ではオナラだってガマンしちゃうから完全な自然体とも言い切れない。そのあたりがバツが付いちゃった私の贖罪意識というか、一種の十字架?みたいなものなのだろう。

で、今日は下の子の話を少し書いてみたい。

このブログでも何度か書いてきたが、ダウン症の元気な男の子である。あっという間に9歳になった。もう4年生である。わんぱく盛りだ。

過去に載せた話もいくつか紹介したい。ここに載せた話以外でも直接間接にいろいろなご意見やご相談を寄せていただいた。同じような境遇になった人達にとって少しでも参考になればいいと思う。

私の場合、家庭を離脱した以上、エラそうなことは言えないが、これから先こちらが子供二人を引き取る可能性もゼロではない。そうなった場合の諸事情を考える機会も増えた。

さまざまなケースを想定しながら自分でもこれまで感じてきたことを常に振り返るようにしている。今まで感じたことや考えたことはいっぱいある。とりあえず古い順にいくつか並べてみた。

ダウンちゃんとの葛藤

座敷わらし

ダウンちゃん奮戦中

ダウン症 赤ちゃんポスト

障害を持つ子ども



発育というか、成長のゆっくりさは理解しているが、それにしてもスローペースである。まだ3~4歳ぐらいに思える。いや、実際には知能的にももう少し成長しているのだが、話すことがイマイチなのでコミュニケーションの面では3歳児を相手にしているような感覚だ。

ゆっくりとはいえ、いつの間にか一人でトイレや着替えもこなすようになってきた。いずれも健常児に比べれば低レベルだが着実に進歩している。長い目で見るしかない。

言語能力については、いつもうるさいぐらいピーチクパーチク何か言っているので充分に備わっているようだが、発声や発音に大きな問題がある。これが今後の大きな課題だ。

今年に入ってから口の中の手術も受けた。発音を良くするための形成的な内容だ。全身麻酔で邪魔な部分をちょん切った。あと1、2回そんな手術が必要になるらしい。気の毒だが、幼いうちに処置した方が何かと良いそうなので頑張ってもらうしかない。

一般的にダウン症の子どもは、おっとりと穏やかで気持ちが優しいと言われる。ウチの子も3歳ぐらいまではそんな要素を感じたが、今ではいっぱしの悪ガキである。

大好物の「じゃがりこ」は他の人に取られないように抱えて食べる。1本横取りするだけでやたらと怒る。散歩中も行きたい方向に行けないとやたらと怒る。

頑固で一途というのもダウン症の傾向だが、そっちの特徴はしっかり身についている感じだ。それでも、私がクシャミや咳払いするだけで、いちいち「ダイジョブ?」と聞きに来るような優しいところは可愛い。

やりたいことしかやらない、協調性が足りない。これって考えてみれば私の子ども時代と同じである。そんな要素を受け継いじゃったのかもしれない。

親の立場としては、子どものダメな面をいちいちダウン症のせいにしてドンヨリしそうになるが、健常な子どもにだって腹をたてたり嘆いたりする。そう思えば、たいして変わりはない。

ウチのチビは散歩中にご機嫌だとやたらと見知らぬ人に愛想を振りまく。ニコヤカに反応してくれそうな人を彼なりに見抜いているのが不思議だ。

その一方で、機嫌が悪いと誰彼構わず「邪魔。どけ」とか言い出す。そういう言葉に限ってしっかり発音出来ちゃうから堪ったものではない。その都度ペコペコ頭を下げる私の身にもなって欲しいものである。

生意気盛りだから、誰よりも自分の味方であるはずの姉に対しても時に好戦的な態度をとる。勝てるはずはない。結局、姉に蹴られたりして泣いている。

つい甘やかしてしまう父親より、姉のほうがよほどシビアである。容赦せずにぶっ飛ばしている。変に甘やかすのは一種の差別意識みたいなものだから、姉の自然な姿勢が弟にとっては何よりの教育だろう。

というわけで、特に変哲もない話である。そんなものである。ことさら大袈裟に構えたところで何かが変わるわけではない。普通に受け止めるしかない。

確かにこの先の療育や進路などを考えたら悶々とする。とはいえ、健常に育っている上の子だって同じである。今後のことなど悩もうと思えばいくらでも悩める。キリがない。

投げやりという意味ではなく「なるようになる」と居直った方が建設的だし、またそうするしかないのが現実だろう。

私自身、下の子がダウン症だと宣告された時には天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。目の前が真っ暗になった。

あれから10年近くが過ぎ、感じ方や考え方は都度都度変わってきた。これからもまた変わっていくかもしれない。でも当初の感覚とは大きく変わっていくことだけは確かだと思う。

2016年5月13日金曜日

ギター Flower 家入レオ

  
衝動的にギターを買ってから1年半が過ぎた。ギター教室も通い続けている。亀のようにノロマな歩みだが、さすがに少しは弾けるようになった。



ここからが問題である。

私が目指していたのは「ホロ酔い加減で好きな歌をちょこっと弾きたい」というレベルである。

で、簡単な曲ならとりあえず弾けるようになった。入門者の関門と言われるFコードも鳴る。

言ってみれば「到達」ではなかろうか。喜ばしいことである。バンザイ。

昨夜も酔っぱらいながら「サントワマミー」やら「ルージュの伝言」やらの昭和歌謡から、GLAYの「BELOVED」や斉藤和義の「歩いて帰ろう」などをギター片手に熱唱していた。

凄いことだ。自画自賛である。やはり「到達」である。この1年半、血の滲む思いで(ウソです)頑張った結果である。

「ギター? ええ、弾けますよ。お聴かせしましょうか?」と田村正和ばりの口調で宣言したいところだが、さすがにそんなレベルではない。それ以前にまだまだ大きな関門が待っている。アルペジオなどの指弾きである。

今まで敵前逃亡するかのように指弾きを敬遠してきた。ストロークならあれこれとパターンを変えることも出来るようになったが、ポロリン、ピロリーンと1本ずつ右手の指を動かすのは大変だ。

つくづく1年半前から少しずつ練習しておけば良かったと思う。どう逆立ちしたって私は無器用だ。

靴ひもを結べるようになったのは誰よりも遅いし、今だにネクタイを結ぶ際はいったん口にくわえるという段取りを踏まないと上手くいかない。

そんな私が指を細かく動かして演奏するなんて想像すら出来ない。

「あんな神経質野郎みたいなミミっちいことが出来るかってんだ!コノヤロー」と啖呵を切って(ウソです)指弾きにトライしてこなかったツケだ。

1年半も続けているのに指弾きがちっとも出来ないことは異常である。1年半ゴルフに励んでいるのに毎度空振りするぐらいヘタレた話みたいだ。

すなわち、ちっとも「到達」していないわけだ。困ったものである。


さすがにそろそろ指弾きの世界に集中しないとなるまい。かなり憂鬱である。

この「憂鬱」が怖い。楽しみたくて始めたのに憂鬱を乗り越えないと楽しめない。憂鬱だと感じない精神コントロールの方法は無いものだろうか。

部活でもないし、試験があるわけでもない。衝動的に始めたわけだから憂鬱に負けるとギターをやめちゃいかねない。それが怖い。びびっている。

憂鬱である。

そんな堂々めぐりを書き殴っても仕方がない。音楽つながりで話題を変える。

イマドキの音楽にあまり興味がないのは中高年に共通する特徴である。どうしても自分達が若い時代に馴染んだ曲ばかり聴きたくなる。

私も同じだが、思春期の子供を持つ親だから、親子の会話の中でイマドキの歌を教わる機会もある。

キーキーヒーヒー、首を締め上げられたように歌うようなオネエサンボーカルの歌い方や妙に底の浅い印象の歌詞に苦手意識があるのだが、それはそれ。時にはハマる曲もある。

いくつか紹介してみたい。まずはギターの練習用に聴いているうちに好きになった「ちっぽけな愛のうた」。

佐藤健主演の3年ほど前の映画の劇中歌として腕っこきプロデューサーの亀田誠治が作った曲。


次は森本レオとの関係性が気になる家入レオの曲。恋愛ドラマの主題歌になった「君がくれた夏」がヒットしたが、こっちの曲のほうがギターのストローク練習には都合が良い。


続いてはFlowerの「瞳の奥の銀河」という曲。この人達はEXILEの孫会社のような存在らしい。そのあたりの解説は娘に改めて教わらないと分からない。

プリプリとお尻を振って踊るのが仕事の人達かと思っていたが、この曲はメロディーラインが綺麗でグッときた。

個人的にはこんなシャリシャリした感じではなく、アコースティックなアレンジで聴いてみたい。

もっと言えば曲調に合う声質のボーカルが歌ったら更にグッとくるような気がする。ファンの人、すいません。でもとてもナイスな曲だと思う。


ということで、Flowerの曲に萌える50歳である。今風に表現するなら、ちょっとキモい。

2016年5月11日水曜日

ラビスタ阿寒川 タンチョウの赤ちゃん


「ただ川と温泉だけの森に-」

そんなキャッチフレーズに惹かれて,、連休の後半に阿寒湖の近くの宿に出かけてきた。

ゴールデンウィークに入ってから手配したのだが、釧路空港への飛行機も宿もスムーズに取れた。


空港からレンタカーを飛ばして1時間、ホントに何もない所に宿はあった。「ラビスタ阿寒川」というホテルがそれ。

各地に個性的なビジネスホテルや和モダンをウリにした宿を運営するグループ企業が昨年オープンさせたらしい。

鄙びた純和風の宿のほうがピッタリしそうな立地に「旅館のようなビジネスホテル」が突如現れたような風情である。

全体に清潔で快適。どちらかといえば若い人向けだろう。高級感や凜とした感じは無いが、カジュアルに温泉を楽しむにはちょうど良い。


部屋の窓側にはベンチが設置され、この宿のウリである川の眺めを楽しめる。部屋の風呂もリバービューだが、安アパートのユニットバス並みに小さい。せっかく掛け流しの温泉が引かれているのに残念。

その分、露天風呂付きの大浴場の他、予約不要の貸し切り風呂が3カ所用意されていた。眺めの良いサウナもあって嬉しい。



立地から考えて大浴場はもっと大きくても良さそうだが微妙に小じんまり。なんとなく全体的に窮屈な印象はぬぐえなかった。まあ混雑していなかったので問題なし。


貸し切り風呂も空いていればいつでも入れるし、予約不要だから手軽で有難い。夕方、夜、朝と3回も入った。窓を開ければ露天気分も楽しめる。

温泉に浸かりながら当たり前のように出没する鹿を楽しめるのも辺鄙な立地ゆえの特権だ。都会育ちなら間違いなく興奮する。私も興奮した。そんな非日常感が旅の醍醐味だろう。


レストランでの夕飯の際にも窓の外の川辺に大量の鹿が登場。餌付けしているわけではなく、宿が出来る前からこの辺りを縄張りにしていたそうだ。

でも、あまり大量に登場すると希少性が薄らぐ。ちっとも興奮しなくなる。ワガママなものである。

夕飯は場所が場所だけに期待していなかったのだが、品数も多いし、一品ずつ運ばれてくる。オジサマ族にとってはクドいものも多かったが、ボリュームもあって若い人なら満足だろう。



何だかんだ言って一番印象的だったのが「寒さ」である。東京が25度ぐらいあった日に最高気温は12度。さすが釧路方面である。温泉に入り浸るには最高だった。

釧路エリアはいつでも気温が低い。夏場でも他のエリアより涼しい。夏場だけ避暑目的で長く滞在する人も多い場所である。

それなりに厚着で出かけたのだが、外にしばらくいるとしばれる。冬を思い出すように冷える。

名物のタンチョウヅルを見に行った時も寒くて寒くて「さすが北海道!」とトンチンカンな感想を漏らした次第である。


今回は丹頂鶴自然公園で運良く生まれたばかりで公開初日のヒナを見ることが出来た。

チョロチョロと親の傍に隠れがちなヒナを見るために長々と寒空に立っていたから身体の芯まで冷えてしまった。まあ、これも一種の非日常である。


真ん中の茶色い個体がヒナ。スマホのカメラではこれが限界。遠くから見ていると単なるヒヨコである。でも、ヒョコヒョコ歩いている姿は実に愛らしかった。

ちなみに、自然公園やツルセンターで真冬の雪原に踊るタンチョウの美しい写真をいっぱい見て妙に興奮してしまった。

おかげで、冬になったら一眼に望遠レンズを装着してタンチョウの写真を撮影したいという欲求がフツフツと湧いてきてしまった。

老後の趣味は「全国の城めぐり」にしようと思っていたのに「真冬のバードウォッチング」も捨てがたい。

数年前に流氷見学に行った際に見た憧れのオオワシもまともに撮影できたことがない。

「タンチョウとオオワシ」がやたらと気になり始めた。最近、水中写真撮影をサボり続けてカメラ機材にお金を使わなくなっていたのに、実にヤバい流れである。

2016年5月9日月曜日

畳の部屋 い草の香り


ラベンダー、オレンジ、バニラ。どれも好きな香りである。しょっちゅうではないが、それらのアロマエッセンスやその時の気分に応じたお香などを買ってきては部屋の中で陶然とする。

香りの効果はなかなか侮れない。ホゲ~っと心からリラックスできる。心地良い香りがする場所にいると立ち去りがたい。

色気のない話だが、鰻屋さんの前で鼻をひくひくさせながら佇んでいると、しばし動きたくなくなる。

雨上がりの緑が発する独特の香りや金木犀がフワッと香る瞬間なども時間を止めたくなる。

そんな香りの魔力を強く感じるものの一つが畳だろう。い草の香りである。癒やされる。


畳が身の回りに溢れていた頃はさほど意識しなかったが、今は暮らしの中に畳がないので、旅先の旅館であの香りに接すると一瞬でホゲ~とした気分になる。郷愁という言葉を実感する。

いま住んでいるマンションには和室がない。遺産分割、いや財産分与で手放した前の家にもアジアンモダン調に仕立てた板の間の部屋はあったが畳はなかった。かれこれもう20年近く畳とは無縁になってしまった。

時々は仏壇に線香を上げに行く実家も、15年ぐらい前にベルサイユ宮殿を模して(ウソです)建て直してしまったので今は和室がない。

今の世の中、ダイニングテーブルと椅子、ソファにベッドという暮らしだから、畳が無くても不便はない。それでも中高年になってくるとDNAのせいなのか、無性に畳の部屋の香りが恋しくなる。

若い頃にはピンとこなかった演歌が染みるようになってくるのと同じ感覚だ。お吸い物に入っている三つ葉をよけずに食べるようになったのとも同じ感覚だろう。

なんか違うような気もする・・・。

先日も、多くの旅館が使っているらしい「い草の芳香剤」をネットで購入した。畳替えした直後のような香りが楽しめる。枕元にシュッと吹きかければあの香りに包まれて眠りに落ちることが出来る。

ホームセンターに行っても、い草の香りが強い枕や座布団がすぐに欲しくなる。愛用しているスリッパもい草をベースにした畳っぽいやつである。

それより何より、今の住まいに引っ越してまだ1年も経たないのに、次に引っ越しする時は必ず和室がある物件にしようと決意している。

加齢とともに原点回帰みたいな傾向が強くなってくるのだろうか。

あと10年もしたら着物姿で純和風の家に暮らし、割烹着姿の後妻さんと畳の上で鍋をつついているかもしれない。

そもそも畳のエコ効果は大したものらしい。湿度が高ければ湿気を吸い、乾燥すれば湿気を放出するんだとか。防音性、断熱性にも優れているそうだ。

最近よく聞くようになった「フィトンチッド」という物質も畳文化の日本では昔から当たり前のように機能していたそうだ。

森林が持つ活性パワーみたいなものである。ストレス予防や免疫力向上に効果があるようで、人生後半戦の身としてはセッセと取り入れないといけないと思う。

ということで、畳の香りに身を置きたいという大義名分をタテに快適な旅館に出かけたくなってきた。


最近は、和風モダンとやらで板の間を多用してそこにローベッドを配置する宿も増えてきた。それはそれで悪くないが、畳スペースも適度に維持してもらわないと雰囲気が出ない。

温泉で身体をほぐして、ウマい酒、ウマい飯を味わい、い草の香りを吸い込みながら眠りに落ちる。これぞニッポン人としての喜びの基本だと思う。

2016年5月6日金曜日

ウナギ雑感 大江戸 いづもや


「冷酒のつまみコンテスト」で21年連続1の座に君臨するのがウナギの白焼きである。

私の頭の中だけで展開されるコンテストなのだが、四半世紀にわたってトップの座を守り続けている。



わさび醬油をチロッとまとった白焼きを味わい、飲み込んだと同時に冷酒をキュッとあおる。ウナギの風味と脂が冷酒に包まれて五臓六腑に染み渡っていく。

グヘヘヘって感じである。

白焼きに限らず、私はウナギが大大大好物である。仕事の付き合いの席でこちらが店を指定できる際にはウナギ。おひとりさまディナーもウナギ、オネエサマ方と食事をするのもウナギというパターンが結構多い。

冒頭の画像は日本橋にある老舗「大江戸」の白焼き。下にお湯を張ってウナギが冷めないように工夫された器で出される。

もう何年も前になるが、初めて食べに行った際に「白焼き命」の私が一気にこの店のファンになったのもこの気配りのせいかもしれない。

白焼きがウマい店は間違いなく蒲焼きもウマい。「大江戸」に行くと頼んでしまうのが「極上鰻重」である。3年ぐらい前に値上げしてバカ高くなってしまったのだが、たまにしか行かないから奮発したくなる。



ご飯が見えないのが何とも贅沢である。絶滅の危機に瀕しているウナギをこんなに食べちゃうことに後ろめたさを感じるが、私にとっては人生の喜びそのものなのでガツガツ食べてしまう。


白焼きを肴に飲んだ後に蒲焼きもツマミにして飲みたい。だから始めのうちは冷めないように蓋を開け閉めしつつ、ご飯には手をつけずにウナギだけつまんで冷酒をグビグビする。

宝箱をコソコソあさっている気分になってワクワクする。

ツマミとして堪能した後でも充分すぎるほどウナギは残っている。シメの鰻重として存分に堪能できるわけだ。

東京にはウマい鰻屋さんがたくさんある。私も自分の行動範囲ではアチコチ食べに行ったが、最近はこの「大江戸」ともう一軒、日本橋の別の店ぐらいしか行かなくなった。

開拓精神が乏しくなったこともあるが、「いつもの安定感」に惹かれるようになった。今更知らない店に行ってガッカリするのはゴメンだ。

最近も某下町の某老舗の鰻屋さんに行ってみたが、味付けが甘ったるいだけで私には合わなかった。日本橋に足を伸ばさなかったことを後悔した。

さてさて、日本橋のもう一軒の鰻屋さんの話だ。「いづもや」という店。ここでは白焼きの応用編ともいえる魚醤焼きが味わえる。ウナギで酒を飲みたい時にはもってこいである。




この店が独自に開発した「いづも焼き」がそれ。以前、このブログでも書いたことがあるが、ウナギで作った魚醤で付け焼きする。

ハーフサイズで注文できるのも有難い。私の場合、ここでは白焼きといづも焼きをそれぞれハーフで注文して冷酒をカピカピ飲んでいる。

他にも気の利いたツマミが揃っているので、いつも最後の鰻重がフードファイト状態になりそうになる。

さて、白焼き、蒲焼き以外にも鰻屋さんには嬉しいメニューが揃っている。オジサマにとっての宝物である肝焼き、卵焼きでウナギを包んだ「う巻き」、酢の物としてサッパリ味わう「うざく」などなど。





こんなラインナップで冷酒を楽しんでいるのが何より幸せである。だいたい鰻屋さんでノンビリしている時は、店に入った時からずっとアノ香わしい鰻の蒲焼きの匂いにさらされているわけだ。凄いことである。

それにしてもニュルニュルニョロニョロで見た目も不気味なウナギを美味しく料理するようになった先人の知恵と技術に心から感謝したくなる。

忘れてはいけないのが「ウナギのタレ」だろう。あれが嫌いな人は世の中に存在しないんじゃないかと思えるほど日本料理界の傑作だろう。


わが家の冷蔵庫には常にウナギのタレが買い置きしてある。豚肉や鶏肉をフライパンで炒める際に、ウナギのタレで味付けすると簡単に一品が出来上がる。

いつも目分量で適当に炒めるのだが、塩コショウでの下味も要らないぐらいだ。簡単かつ便利なのでモノグサな人にはオススメである。

子供の頃、山盛りのドンブリ飯にウナギのタレだけをかけてウホウホ食べることがあった。肝心のウナギが無くても気にせずタレだけで満足していた。

今もその頃の質実剛健?な嗜好が維持できていれば安上がりなのだが、さすがにそれは無理である。いつもウナギをドッサリ食べたくなる。ウナギ煩悩の塊である。

書いているだけでまた食べたくなってしまった。




2016年5月2日月曜日

クリームコロッケの立場


「ニッポンの洋食」大ファンとして、これまでもオムライスがどうした、タンシチューがどうだ、エビフライが不憫だなどとアレコレ書いてきたが、今日はカニクリームコロッケについて考察したい。


別に「カニ」である必要はない。エビでもチキンでも構わない。クリームコロッケという不当に低い地位に甘んじている存在に光を当ててみたいと思う。

ちなみにこの画像は、銀座にある「南蛮銀圓亭」のカニクリームコロッケとエビクリームコロッケの盛り合わせ。ウットリするほど美味しかったが味は一緒である。

さて、洋食屋さんで主役といえば、シチューやステーキ、カツレツ、ハンバーグといった面々である。クリームコロッケは「ついでの一品」という印象がぬぐえない。脇役である。

脇役がダメというわけではない。主役を引き立てるその力量は軽視すべきではない。でも、主役になれる実力があるのに脇役に追いやられていたら実にもったいない話である。

クリームコロッケはそんな存在だ。前菜とも違うけどメインというわけではない。それが現実的な立ち位置である。

なんでだろう。おそらく芋のコロッケのせいだ。

あいつはお手軽で身近な家庭版ファストフードの代表である。大衆料理の大看板だから同じ「コロッケ」を名乗るクリーム系がトバッチリをくらっている。

ポテトコロッケに恨みはないが、私はジュリジョワっとしたじゃがいもの食感が苦手なのであまり手を出さない。

肉が混ざっていても中途半端な感じがする。肉のクセにジャガイモの子分みたいにまぶされている挽き肉や肉片の頼りなさが気に入らない。肉としてのプライドが感じられない。

個人的かつ偏屈な意見なのでファンの方には御容赦いただきたい。

イモコロッケとクリームコロッケは、明治や大正の頃は、コロッケとクロケットと別々に称されることも多かったらしい。前者がイモ、後者がベシャメルである。

確かにまったく別の食べ物だから、同じコロッケという呼称に問題がある。「コロッケ食べたい」と聞けば普通はジャガイモ系のことを想像する。

ベシャメル系のコロッケはわざわざ「クリームコロッケ」と余分に発音しないとならない。最初から負けている感じがする。


洋食専門店で丁寧に作られたクリームコロッケの美味しさは格別だ。ウホウホフガフガ言いたくなる。こちらの画像は日本橋「たいめいけん」の一品。

合わせるのは中濃ソースでもウスターソースでもいい。カラッと揚がった衣とベシャメルソースが黒いソースという魔法のタレと混ざり合うことで口の中だけでなく脳や心臓まで幸せにしてくれる。

そこにタルタルソースを追加するのも良い。複雑に絡まり合った甘味や酸味や旨味がスペシャルなハーモニー?を奏でる。十二分に主役を張るだけの実力を備えている。

子供の弁当向けの一品だと錯覚している人がいたら大間違いである。大正時代はビフテキより高価だったという説もあるぐらい洋食の世界ではエース級の存在だ。


ちなみにこれは白子のコロッケ。冬の珍味の代表格である鱈の白子を揚げてもらうと「ほぼクリームコロッケ」になる。時々、お寿司屋さんで作ってもらう邪道メニューの一つだ。

単純明快に美味しい。でも、白子にソースをかけるというよく考えたら変な食べ方が少し気になる。「だったら洋食屋に行けばいいじゃないか!」と心の中でつぶやく。

ついでに言うと、クリームコロッケは画像が撮りにくいのが難点である。飲食店で食べ物の画像を撮るのはカッチョ悪いことだと自覚しているが、ブロガーとしての習性?でついついスマホを取り出してしまう。



ウナギやトンカツは絵になるが、クリームコロッケはかっさばかないと冒頭の画像のように単に丸っこい衣の画像になってしまう。仕方なくわざわざ断面が見えるように撮影するのだが、そんな作業に励む自分の野暮極まりない振る舞いが哀しくなる。

でも、そんな手のかかるところもクリームコロッケのニクいところである。

さんざんクリームコロッケを褒め称えておいて何だが、結局私はベシャメルソースが死ぬほど好きなんだと思う。

古くは子供の頃に親が作ってくれたグラタンやドリアが大好きだった。私にとっての「おふくろの味」は間違いなくその二つだ。



この2点の画像はコキールである。銀座の老舗「煉瓦亭」の一品だ。店によってはコキーユという名で出している。洋食屋さんで時々見かけるのだが、あまり一般的ではないのが不思議で仕方がない。

はしょって言えばグラタンやドリアの「上だけ」である。そんな言い方をすると元も子もないが、実にウマい。おかずかツマミか判然としない料理だが、「ベシャメラー」である私にとってはドストライクな食べ物である。

胸焼け太郎として揚げ物であるクリームコロッケを我慢する時でも、これがあれば私の煩悩は満たされる。

これからの人生、残された時間をクリームコロッケの地位向上とコキールの普及を声を大にして主張していきたいと思う。