2016年2月12日金曜日

オムライス迷走 たいめいけん 煉瓦亭




「ふわとろ系」がオムライス業界を席巻してから30年になる。たぶん。

もちろん、それ以前から存在したのだろうが、一般化したのは伊丹十三監督の映画「たんぽぽ」がきっかけだろう。1985年の作品だ。

冒頭の画像はふわとろ系の代名詞のようになっている日本橋「たいめいけん」のたんぽぽオムライスである。

この一品がわざわざ映画のタイトルを冠していることからも「30年説」は妥当だと思う。

ニッポンの洋食の本場である東京で育った私自身、ふわとろ系を食べるようになったのは大人になってからだ。

オムライスといえば「薄焼き卵&ケチャップ」が定番だった。下手な店では薄焼き卵が焦げていることも珍しくなかった。

ドミグラスソース、トマトソースなどを使うオムライスも昔は存在しなかった。ケチャップ一辺倒。きっとふわとろ系の普及によってソースも変化してきたのだろう。

実は私は子供の頃、あまりオムライスを食べなかった。その理由はチキンライスをくるんでいた薄焼き卵があまり好きではなかったからである。

卵は大好きだ。でも薄焼きになった途端、得体の知れない皮みたいになっちゃって風味も何も感じない。

ちなみに茶巾寿司も食べない。金糸卵も昔から苦手だ。食感も感心しないし、味わいがない。ばらチラシを注文する時も金糸卵は減らしてもらう。

昔の王道のオムライスは当然「ふわとろ」ではなかった。薄焼きだから何となく「茶巾・金糸連合」の仲間みたいな感じがしていたので好んで食べなかったのだろう。


この画像は九段下のホテルグランドパレスのオムライス。ホテルレストランのオムライスは値段も高い代わりにホテルのシェフの矜持も絡んでいるからたいていは美味しい。

というわけで、今、ふわとろ全盛時代だ。私としては喜ぶべき状況だが、安易に時代に迎合したようなミーハーぶりに少し後ろめたい気分も感じる。

素直にふわとろに歓喜すればいいのに、伝統的なものに背を向けてしまったヘンテコな敗北感のような感覚がある。考えすぎか。

だから時々、単に水っぽいビチャビチャ系の「ふわとろモドキ」に遭遇するとイライラする。古典的な王道オムライスに回帰しようかと考えたくなる。

卵を「ふわとろ」に仕上げた一品とただのナマっぽい「出来損ない」は違う。自分で作るわけではないので詳しくは分からないが、真っ当なふわとろとダメダメなふわとろは別次元のモノだ。

先日、ふわとろ、薄焼きのいずれにも属さない「孤高のオムライス」を食べてきた。いうなれば「まぜまぜ系」だ。


銀座「煉瓦亭」の名物である。卵も米も具材も一緒になってフライパンで炒める独特の作り方で知られる。これがオムライスの元祖だという説もあるらしい。

何年かぶりに食べたのだが、これはこれで美味しい。卵かけご飯を思わせる優しい味わい。炒めメシだからチャーハンに近いのだろうが、実際にはリゾット的な食感が楽しい。


遠目では分からないが、アップにすると「まぜまぜ系」であることがよくわかる。

好き嫌いは分かれそうだが、誰もが勝手に頭の中でイメージするオムライスとは別の食べ物だ。そう思って食べればちゃんと美味しい。

なんだかんだ分かったようなことを書き殴ってきたが、最終的には自分の好みの路線を自分なりにしっかり認識しているかどうかがオムライス探究のキモだろう。

オムライスと一口に言っても実に奥が深い。卵をどのようにアレンジするかが最大のポイントではあるが、中に潜むチキンライスの出来も非常に大事だ。

卵に気を取られてライスが二の次になっていたら本末転倒だ。ふわとろの場合、上が柔らかいのだからライスまでベチャっとしていたら興醒めだ。

その一点こそが勝負の分かれ目だ。

結局、私の好みは卵うんぬんではなく、コメの炊き加減に尽きるみたいだ。

さんざん卵のことを書いてきたわりには中途半端な結論になってしまった。

はたしてオムライスって卵料理なのかコメ料理なのか、どっちなんだろう。

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