2014年8月25日月曜日

中年の時代


NHKの朝ドラ「花子とアン」で渋い演技を見せた吉田鋼太郎が人気沸騰中とのこと。


今日の画像(3点)はネットから勝手にパクってきました。スイマセン!

ドラマは見ていなかったのだが、吉田鋼太郎扮する「伝助さん」と白蓮の別れの回だけはたまたま見ることが出来た。

その放送回は、吉田鋼太郎のアドリブによって「伝説」と化したらしいから、そこだけ見た私はラッキーである。

そんなことはどうでもいい。

吉田鋼太郎という俳優をはじめて知ったのは、昨年放送されたNHKの硬派ドラマ「七つの会議」がきっかけだった。

その存在感に圧倒された。舞台中心にキャリアを積んできた無名の俳優の中には凄い人がいるもんだと感心した。

あっという間に無名どころの話ではなくなり、先日読んだ週刊誌では、隠し撮りされて、複数回の結婚歴までバラされていた。

一言でいうなら「カッコいいおっさん」だ。中年の星である。まだ40代の私にとって、50代半ばの彼のカッコよさは物凄く励みになる。

ヒゲにも白いものが混ざり、髪の毛だって減って、シワだっていっぱい刻まれている。普通だったらネガティブな印象を与えるそうした要素が逆に彼の魅力になっている。

これって大きなポイントだ。

枯れてきている部分をアピールポイントにする。世の中の中年男たちが見落としがちな逆説的レトリック!(何じゃそりゃ?)である。

役所広司なんかもそうだ。白髪混じりの髪がボサボサだったり、潔く伸ばした無精ヒゲだったり、極論すれば「美しくない姿」を上手に武器にしている。

もちろん、彼らがそれを意識してやっているかどうかは分からない。でも、放っておいても勝手に滲み出てくる雰囲気であり、男としての年輪みたいなものである。

一歩間違えれば、ムサくるしいとか、オッサンくさいとか、批判されかねない様子だとしても、単なる不潔とは微妙に一線を画すところがミソである。

投げやりとは異質な突き抜けた感じ、無頼な感じとでも言おうか。流されない男のダンディズムと表現してもいいと思う。

う~ん、何だかうまく表現できない。

中年男の魅力って結局は人生経験に尽きる。衰えてきた風貌自体が歴史を刻んできた証だと居直って武器にするような開き直りが大切だと思う。

吉田鋼太郎より年上なのに、今もピキピキ踊っている「郷ひろみ」になれるオッサンは一般的な社会では存在しない。ある意味、あんな歳の取り方は不気味である。

郷ひろみさん並びにファンの皆様、スイマセン・・・。

潔く、自然に枯れていく風情を隠すことなく堂々としている姿。これって、無理して若作りに必死になるイタい感じのオッサンより遙かに素敵だと思う。



最近、人気が急上昇した俳優といえば、松重豊と遠藤憲一だろう。

彼らもオッサンである。2枚目というジャンルではない。吉田鋼太郎もそうだが、「自然体で味のある中年男」というジャンルが一気に世間を席巻しはじめているとしたら素晴らしいことだ。

世の中が、超高齢化社会となったことで、昔なら「一丁上がり」だった50歳代以降のオッサンが、いつの間にかさまざまな面で現役感を漂わす時代になってきた。

これから50歳代を迎える私としても大いに有り難い風潮である。だからこそ、適度なハッチャケ精神は忘れてはいけないと思う。

中年になると、分別ヅラしてつまらない言動に走りがちだ。いっぱしのオッサンだし、充分な経験を積んでいる以上、良識は大事だが、訳知り顔で後ろの方に引っ込むようでは退屈だ。

もっともっと攻めていいと思う。

ついでに言うと、イマドキの若い男たちに覇気が無いおかげで中年男が現役バリバリで奮戦しているという現実もある。

タナボタ?みたいで、それはそれで結構なのだが、次の次代を担う男たちがシマウマみたいにフニャフニャしている現状は気になる。

我々の世代が若かった頃、とくにバブルの頃などは、同年代の女性たちをオッサン達にことごとく奪われ、地団駄ふんで悔しがった。それこそライバル心剥き出しでオッサン達を眺めていた。

今の時代、若者達がそんなギラついた目でオッサン達を眺めている様子はない。大丈夫だろうかと余計な心配をしたくなる。

それだって、いまオッサンとして生きている世代が、「カッチョいいオッサン」としての姿を見せることが大事なのかもしれない。

ということで、世の中の中年男の皆様、若者達から「あんなオッサンになりたい」と思われるような男を目指して頑張りましょう!

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