2014年4月9日水曜日

宗教とか畏怖の念とか


時代とともにバカ親が増えているそうで、学校現場はクレーム対応が重要業務になっているとか。

「いただきます」「ごちそうさま」というセリフにまで文句を付けるアホ親もいるそうだ。

給食費を負担している以上、そんなセリフを学校に言う必要は無いという屁理屈でねじ込んでくるらしい。

本来、「いただきます」、「ごちそうさま」という言葉は、作り手やお金を出してくれた人に言うものではない。

あくまで「命をいただきます」、「命をごちそうさま」というのが大元の語源である。

日本人の伝統的、習俗的な感性に基づく基本的な挨拶みたいなものである。学校に文句を言う筋合いの表現ではない。

日本人は古来、「八百万(ヤオヨロヅ)の神」を信じ畏怖の念を抱いてきた。一種の土着信仰的な宗教観だろう。

すべてのものに神が宿るという感性は、ことさら特定の宗教に依存するまでもなく、日本人独自の道徳心を高めることにつながった。

何百年、いや千年単位でつないできたそうした感性が日本人の規律維持や情緒面にまで影響をもたらしてきたわけだ。

ところが、敗戦を契機に、それまでの価値観が否定され、「旧式の感性=間違っている」という乱暴な図式で物事が片付けられる場面が増えてしまった。

敗戦からおよそ70年。アチコチでじわじわとヘンテコな事態が生じるようになってしまったのだろうか。空恐ろしいことだと思う。

宗教観というと大げさで誤解を招きかねないが、正しく畏怖の念を持つことの大事さを痛感する。

自然界の全てのものに神が宿ると信じてきた日本人の宗教観は、乱れた生活を正すために普及した西欧社会の宗教観とは大分違うのだろう。

墓参りにお寺に行って、その後でクリスマスを祝い、続いて神社に初詣に行く日本人の感覚は無節操といえば無節操だ。とはいえ、長い年月にわたって培ってきた宗教観を思えば、ある意味理解できる。

雨、風、星や月、野に咲く花や森の木々にまで「畏れ」を感じてきた日本人の感性からすれば、畏怖の対象は特定の神様に絞る必要は無いわけだ。

無宗教、もしくはそれに近いということを声高に言う人は少なくない。私自身もそんなタイプである。信心のカケラもない。

一応、実家の宗教は浄土真宗だが、それとて、戒律がゆるいことが先祖代々が檀家になっていた理由だろうと睨んでいる。

死を実感する年齢ではないからなのかもしれないが、自分の墓とか葬式のやり方なんかにも興味が無い。

肝心の自分が死んじゃってるのだから四の五の言っても始まらない。白州次郎だったか「戒名不要、葬式無用」と遺言したそうだが、さもありなんと思う。今のところ、それが本音だ。

アマノジャク感覚で言ってるわけでもなく、ひねくれ根性で強がっているつもりもない。

一応、日本人独特の「畏怖の念」みたいな感性は備えているつもりだ。

畏怖の念などと言うと難解な雰囲気だが、「バチが当たる」とか「お天道様が見ている」とか、そういう習俗的な畏怖心は人並み以上に意識している。

教育とか躾を考える時こそ、そうした「畏怖の念」を大事にすべきだと思う。

今日、こんな話を書こうと思ったのは、娘の中学の入学式でいろいろと思うことがあったからである。

キリスト教の学校に通っている娘は、4月から中学生になった。歴史のあるチャペルで厳かな雰囲気で行われた入学式に父親として参加したことで改めて「畏れ」の大切さを痛感した。

私自身、幼稚園から高校までカトリックの学校に通った。夏にはひんやりしていたチャペルに忍び込んで半裸で昼寝するようなアホガキだったくせに、どこか宗教的施設や行事に対する「畏怖」は感じていた。

キリスト教を信じる信じないという次元ではない。節目節目で「恐れ」とはまったく異質な「畏れ」という感覚を学び、味わったことは意味があったと思う。

日々、勝手気ままな言動を繰り返し、無宗教みたいな顔をしているくせに、「バチが当たる」などの日本的畏怖心はしっかり自分の行動規範に影響している。

私が持つ畏怖心がたとえ日本的土着宗教観に根ざしたものだとしても、やはり幼少期から長年叩き込まれたキリスト教教育が影響した面はあると思う。

スポンジみたいに何でも吸収する年代に、しつこく「目に見えないものへの畏れ」を言われ続けたのだから、キリスト教だろうが仏教だろうが、自然と宗教心みたいな感性は刺激されていたのだろう。

在学中はイタズラの罰として、しょっちゅうマリア像を磨かされ、宗教の授業は睡眠時間にあてていたアホガキが卒業してウン十年経ってから、こんな殊勝なことを思っている。

宗教教育、あとからジワジワ効き目が現れるのだろうか。

ちょっと不思議な気分だ。

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