2013年7月5日金曜日

木を見て森を見ず

今日は久しぶりに硬派な話です。

多くの二代目、三代目経営者が思っていることの一つが「会社を国から買った」という感覚だ。

わかりにくい言い回しだが、親から引き継いだ側面よりも莫大な税金を負担して、ようやく経営を受け継いだという印象があるようだ。

相続税増税によって、一部の人の悩みでは無くなりつつある「相続」の問題。都内に一戸建てがあれば場合によっては課税対象になるぐらい裾野は広がる予定だ。

家や土地、現金が相続の主役のようなイメージだが、中小企業経営者にとっては「自社株」が大きな問題となる。

非上場であれば事実上、流通性、換金性は無い。にもかかわらず「評価」という洗礼によってアッと驚くタメゴローみたいな金銭換算をされることが珍しくない。

工場用地、事業所などが自前の不動産であれば、それらの価値がストレートに自社株評価に跳ね返る。たとえ業績がメロメロで資金繰りに窮していても、資産価値が自社株の評価額を押し上げる。

理屈としては仕方がない。ただ、その自社株を売ろうにも、そんな値段で売れるはずもない。結果、会社を引き継ぐには、評価額に見合う税金を何とか工面するしかない。

「国から買った」、「国に金を払って商売させてもらっている」。そんな感覚もあながち大げさではない。

気が遠くなるほど古い話で恐縮だが、律令時代の「班田収受法」を思い出す。農地はあくまでお上のものであって、農民が死んだら農地は返上するのが基本だった。

頑張って耕したところで、自分の農地にはならないのだから、農民がハッスルするはずもない。荒れ地が増えて、悪法の名の下に大転換を余儀なくされ「墾田永年私財法」が生まれたわけだ。

例えは極端だが、持っている資産に莫大な税金がかかる制度は、「資産は国のもの」と言われているような気持ちにもなる。最高税率が50%を超えるほどになれば、財産権もヘチマもあったものではない。

近年、諸外国の多くが相続税の廃止・縮小に向かっている。理由は単純。生前にさまざま税金を課税してきた残りだから。

すなわち、それまでかかっていた税金との二重、三重課税になっちゃうから相続税はナンセンスな存在という考え方だ。

わが国の場合、相続税そのものの存在を「富の再配分」という大義名分によって正当化している。人間、スタートラインは平等であるべきという実に崇高な?理想論みたいな発想に基づいている。

社会主義国家じゃあるまいし、この国が選択した経済体制の下では、スタートに相応の差がつくことは致し方ないのに、そんな当然の現実を否定する考え方が基本になっている。

もともと、わが国に相続税が誕生したきっかけは、富の再配分などと言う美名とはまるで関係ない事情によるものだった。

日露戦争の戦費調達。あくまでこれが理由だった。その後、いつの間にか「富の再配分」というお題目が取って付けたように登場して、それが金科玉条として今に至っている。

相続税の税収など全税収からみればわずかであり、所得税の10分の1程度でしかない。消費税を0.5%程度引き上げれば相続税収のすべてがまかなえる程度の水準だ。

したがってこんなものをイジったところで税収増につながるわけもなく、存在自体がお金持ちへのヤッカミや嫉妬でしかない。

ついでにいえば、国が大衆増税を打ち出す際のガス抜きに使われている側面もある。相続税増税、すなわち金持ちイジメを打ち出すことで、消費税や所得税などの大衆増税への不満を少しでも吸収しようというパフォーマンスである。実に不毛だ。

税制改正が論議される場合、一般ウケの良い「富の再配分」というロジックばかりが前面に押し出され、諸外国で普通に受け止められている生前に課税された税金との重複課税であるという「性悪説」が取り沙汰されることはない。

一種の思考停止みたいなものだ。木を見て森を見ずという言葉があるが、相続税の問題はまさにこの一言に尽きると思う。

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