2013年6月21日金曜日

据え膳、エロ本


気付けばすっかり中高年である。頭の中に浮かぶことは若い頃と同じなのに、世の中では十二分に成熟した大人になってしまった。

肛門屁の出口、いや、光陰矢の如しである。

最近、ふとした瞬間に「若い頃はこうだったな~」とか「子供の頃は何であんなだったんだろう」と懐かしい記憶が甦る。



この画像は、江戸川橋にある鰻屋さん「はし本」での一コマ。上等なウナギを腹一杯食べたあとの画像だ。

この店、すぐそばにある老舗鰻屋の「石ばし」の陰に隠れがちだが、相当美味しい。惜しむらくは、鰻重が並と上の2種類しかないことだ。ご飯が見えないほどナンセンスに?ウナギがどっかり載っかった鰻重は用意されていない。

富豪記者的には少し寂しい。でも、それが世間に迎合していない職人気質のようにも思えて悪くない。腹八分目もオトナのたしなみとして必要だ。

白焼きもウマいし、値段も良心的だし、穴場だと思う。肩肘張らずに、サンダル履きで出かけられそうな気安さがある一方で、味のほうはバッチグーだ。

さて、空になったお重を見ながら思ったのが、「高校生の頃はウナ玉丼だったなあ」というミョーな感慨である。

ウナギが食べたくても、さすがに高校生の小遣いでは厳しい。おとなしくシェーキーズの食べ放題に行けばいいのに、鰻屋さんの廉価サービス品であるウナ玉丼を食べることが多かった。

親子丼の鶏肉の代わりにコマ切れのウナギがちょこちょこ入っているドンブリだ。隣の席のオッサンが鰻重を食べているのを恨めしくチラ見しながら、早く大人になりたいと願っていた。

あれからウン十年、いまや鰻屋さんで一番デカい鰻重を当然のように食べている。実に大人である。

白焼きも頼んで、うざくやう巻きも鎮座させて冷酒をグビグビ飲んでいる。オッサンの完成形である。

よくわからないけど感慨深い。

感傷的とかそんなセンチな感覚ではなく、ただ漠然と若い頃の悶々とした感じが懐かしく感じる。

カッコつけて飲んでいただけだったお燗酒が心の底からしみじみウマいと感じたり、フォークとナイフの格式高い?食事の場でちっとも緊張しない感覚とか、「気付いたら大人だった」という場面はたくさんある。

飲み過ぎて吐きまくらなくなったのも同じことだ。もちろん、その分、オッサン的ウザったさを身にまとうようになったのも確かだ。

どちらがいいかといえば、オッサン生活のほうが若者生活よりも快適だ。

いつのまにか根拠のない思い込みから解放された感じ。自然と力みも無くなっていた。

あらゆる分野の「ねばならない」という強迫観念みたいな思い入れが単なる呪縛だと気付いて、その外側でホゲホゲ過ごせるようになったのだろう。ウッシシである。

他人様からの目線や風評、噂話なんかにも若い頃は敏感だったが、いまではそんなアンテナはすっかり錆び付いている。それでもちっとも困らない。

男だから女性への興味は退化していないが、それでも若い頃とは随分と違う。

俗に言う「据え膳」を目の前にした時、若い頃なら「しなければならない」と頑張ったが、いまでは眠気が優先すればシレっとした顔で帰っちゃう。かなり大人である。

若い頃は、風邪引いて熱があっても「据え膳」に手を出すのが当然だと思っていたし、「据え膳」が土偶みたいな顔でも、時には目をつぶりながら頑張ったりした。

我ながら御苦労なことだった。

なんだか話の方向性が分からなくなってきた。

さてさて、子供と大人の分かれ目はいろいろある。代表的なのはエロ本を平気で買えるかどうかだろう。

また下ネタに戻ってしまった。

中学、高校ぐらいまでは、駅の売店で売っている平凡パンチとかGOROの表紙が目の隅に入るだけでザワザワした気持ちになった。堂々と買うには勇気が必要だった。

本屋に行ってその手の雑誌を買うにも、勇気を振り絞ったあげく、別の本と重ねて隠し気味にレジに持っていったりした。

その後、ハタチも過ぎたあたりから恥ずかしさもなくなり、欲しいエロ本が見当たらなかったら、レジの人に探してもらうぐらい図々しくなった。

まさに「大人の階段の~ぼる~♪」である。

もっとさかのぼれば、空き地に捨てられていた雨でガビガビになった怪しい雑誌なんかを宝物のごとく拾ってきて「愛用」した。実に切ない話だ。あんなものにウキウキした自分の世界観が哀れである。

それほどまでに愛したエロ本ともすっかりご無沙汰だ。大人になるということはエロ本との別れを意味することなのだろうか。

いや、先日会った旧友は今もエロ本に夢中だという。都内で歯科医院を開業する小学校時代からの友人だが、休診日にコンビニで買ったエロ本を喫茶店で読みふけることが楽しみだとか。

立派である。ヤツのやんちゃな感性は日々のエロ本によって支えられているのだろう。

見習ってみようと思う。

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