2013年4月12日金曜日

障害を持つ子ども


コレを食べたとか、アレが食べたいとか、タヒチに行きたいとか、そんなことばかり綴っているこのブログだが、今日は久しぶりに真面目なテーマを書こうと思う。

障害を持つ子どもの話だ。この春、下の子が小学校に入学した。生後まもなくダウン症と診断され、目の前が真っ暗になったのも束の間、その後、大きな病気をすることもなく、元気にランドセルを背負う日を迎えた。


進学問題ひとつとっても、いちいち悩む課題が多い。幼稚園、小学校と一口に言っても、障害を持つ子の場合、健常児と共に通えるのか、専門の療育機関に委ねたほうがいいのか、親としては未知の経験だけに判断がつかない。

わが子の場合、地元の保育園と特別支援学校幼稚部との併行通園という形を取らせてもらった。社会性を学ぶという意味では地域の子ども達と混ざり合って過ごさせたい。かといって、専門機関による発達支援にも頼りたい。

どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらにすべきなのか判断がつかなかったのが実情である。

そんな思いを保育園と支援学校がフォローしてくれた。有難かった。区立と国立という行政の区割りの中では関係性の薄い組織同士が頻繁に情報交換を行い、時には先生方が双方を行き交う場面もあった。

お役人がどうとか縦割り行政がどうとか、普段の仕事では斜に構えた姿勢で批判記事を書いたりする私だが、子どものおかげで障害児教育に情熱を持つ大勢の人達に出会った。素直に感銘を受けた。心の底から尊敬する。凄いことだと思う。

いっぱしの中年になって、世の中のことを分かったかのような顔をして生きてきたことが恥ずかしくなる経験をたくさんした。

ほんの数年だが、学ぶ場面ばかりだった。

それにしても、障害児の療育活動に情熱を持つ人達に共通するのが「人相」の素晴らしさである。人間、ウン十年も生きてくると出会う人達の人相が気になるようになる。

多分に個人的主観になるが、その良し悪しだけで相手を判断する基準になる。卑しい顔付き、傲慢な顔付き、強欲な顔付き、薄弱な顔付き等々、例えればキリがない。人柄の良さ、誠実さが人相に滲み出る人はやはり魅力的だ。

美人だの美男子だの、そういう次元とは違う。人としての生き方の根源を考えさせるような「良い人相」の人々が、少し変わった子どもを授かった私に色々なことを教えてくれた。

色々と教わったはずなのだが、私の場合、煩悩ばかりでちっとも進歩しない。実に情けない。これは謙遜でもなんでもない。

まあ、無理したところでボロが出るだけだから、自分なりの考えに従って、自分なりの考えで消化していくしか道は無い。

話を戻す。

「大船に乗った気持ちでいてください」。具体的な事例などを交えて口癖のようにそんな言葉をかけてくれる先生がいた。羅針盤の探し方も分からない親にとっては救い主のように見えた。

短い言葉でも人の心をパッと照らす力を持っていることを思い知らされた。

オベンチャラでもない、中途半端な同情でもない、根拠のないその場しのぎの楽観論でもない「力のある言葉」に何度も助けられた。

人に恵まれ、無事に育ってきたチビだが、地元の保育園では、年を重ねるごとに周囲の子どもについていけなくなった。発育のペースが違うわけだから不憫に感じる場面が増えた。

進路の選択に際しては、普通学校の特殊学級という選択肢もあったが、より専門的な特別支援学校を選んだ。保育園の頃から親切に遊んでくれた地域の子ども達と関わり続けられたら彼にとっても幸せだったのだろうが、諸々の事情で断念した。

彼らの療育、進路などについて、何が良いとか悪いとか軽々に断定できないが、選択や判断の難しさは常について回る。正解が無い世界だから迷うばかりだ。

さまざまな情報の中で混乱もした。共闘関係であるべき父親と母親が敵対関係になってしまうお粗末な事態も頻発した。不徳の極みである。そのへんはカッチョ悪い話なので割愛する。

さて、特別支援学校の小学部に入れてもらったチビは、大きめな制服に身を包んで新しい友達と関わり始めた。

入学式では、君が代斉唱の際も得意の?ダンスを始めてしまうヤンチャぶりを発揮していたが、それ以外の場面ではおとなしく着席していた。

来賓挨拶では自発的に深々としたお辞儀を繰り返すなど、自分の置かれた状況の理解力やそこそこの自制心が育っていて嬉しい気分にさせてくれた。

新入生はわずか4人。2年生とセットで編成されたクラス全体でも8人という世界で学び始める。

正直に言えば、もっと大勢の子ども達に囲まれて刺激を受けさせたいという気持ちが無くなったわけではない。でも、これも流れである。良い流れになることを祈るばかりである。

特別支援学校の入学式は小学校だけでなく、中学部、高等部もセットで行われた。新入生、在校生が一同に揃うその式典では、それこそさまざまな「個性」が垣間見えた。

ダウン症の場合、生後まもなく宣告を受ける。いわば親にとっての衝撃と葛藤の始まりは最初の段階からだ。容姿の点でも、早い時期から他の子どもとの違いに気付かされる。

障害の中には、小学校入学時とか中学入学時点など相応の年齢になって初めてそれを判定されるケースもある。

幼いうちは障害に気付かないまま、大きくなるにつれ、学校や医療機関からその可能性を指摘され続け、ある段階になって決定的な宣告を受ける。それはそれで親の葛藤なども複雑さを増すようだ。

もちろん、生後すぐに事実を知ることと大きくなってから知ることと、どちらが良いというレベルの話ではない。

それでも、子どもの状態を見ながら「まさか」とか「信じたくない」という気持ちに踏ん切りをつけるのに時間がかかるのは想像するだけでキツいことだと思う。

先日、友人からお子さんのことを打ち明けられた。まさにそうした流れの中で何年もの間、さまざまな葛藤と付き合ってきたらしい。

気の効いた言葉を語れるほど経験もなく、また、状況を詳しく知らないからもっともらしいことなど何も言えなかった。

それでも彼が抱えてきた心のユラユラした部分が、「誰かに話す」ことでほんの一瞬でも息抜きになっていればいいと思った。

自分自身、未知の体験に遭遇した当時、それを外に伝えることが出来ず、その閉そく感で苦しかった記憶がある。

その後も、「誰かに話す」という単純なことだけでも決して無意味ではないことに気付いて随分救われた。

そうしたテーマを外に向かって話す行為はかなり億劫なことでもある。理解者ばかりではない現実も厳然と存在するし、聞かされる側だって億劫に思う人もいる。

明るく笑って話すのもシックリこないし、重苦しい話にもしたくない。自然な流れでサラッと伝えるのはなかなか難しい。

でも、だからといって内に籠もってしまうのは精神衛生上よろしくない。やはり、ほんの少しだけ気合いを入れて話し始めてみることが大事だと思う。

私の場合、子どものダウン症という現実を宣告されてしばらく経った頃、一人のシスターにお世話になった。その病院の看護婦長も経験されたご高齢のシスターが話を聞いてくれた。

やり場のない感情に悶々としていた時期だったので、恥ずかしながら、「話す」というより、むしろ「毒づく」と表現した方が的確な感じだった。

気付けば小一時間ほど一方的にまくしたてていた。「言ったところではじまらない」、「言ってもムダ」と心底思っていたクセに、機関銃のように思いの丈をぶつけてしまった。甘えさせてもらった。

話し終わった後で、少し気分が楽になったことに自分自身で驚いた。話すことで考えが整理できるというか、覚悟を決める準備が整うような感覚があった。

立派なことや目新しいことは何も言えないし、書けないが、ひとつだけ言えるのは
「話す」ことが大事だということ。

単純なことだが、案外と効果がある。内向的になって苦悶するよりも建設的で意味のある行為だと思う。

最近、出生前診断のことが大きなニュースになっている。障害を持つ子ども達やその親としては、やるせない気持ちにさせられる場面も多い。

一応、数年だが、それなりの葛藤と向き合ってみた者としては、後に続く人達に「話す」ことの大事さだけは伝えたい。

きっと味方はいるし、理解者も見つかる。少しだけ勇気を出して「話す」ことから始めていただきたい。

話すことで輪は広がり、意外な発見や得難い経験にもつながっていく。必要としていた情報が入ってくるきっかけにもなる。

難しく構えずに、ただ単に身近な人に話を聞いてもらう、気持ちをぶつけるといったことで、潰れそうな気持ちを少しでも楽にしてもらいたいと思う。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

お子さんのご入学おめでとうございます。

昨年、お話を聞いていただいたあのときの父親です。その節はお世話になりました。お礼のコメントがなかなかできずすいませんでした。
初めて、親族以外で話ができたこと、同じ境遇で、気持ちがわかっていただけたことに、ありがたさを感じました。

あれから、無事に入院もなくそれなりに育っています。療育に通うお仲間の中では比較的順調なようで、 妻もあまり悲観的にならずにやっていけています。まあ、人並みから徐々にはずれてきて、葛藤することもあるとは思っていますが、受け流せるようにしていきたいです。

話すという意味では、自分は知り合いにほとんど話せてませんが、そろそろ話せるかなという気持ちにはなってきました。でも、辛いから話たいというよりは、落ち着いたという心境からくるものです。
昨年を思い返せば、最初から出口(逃げ道)があるのか、行く末はどうなるのかと、市内の孤児院のような施設にも半泣きで電話してみたりもしました。今考えると自分のことだけ考えた本当に最低な親でした。
今は深く考えなくなりましたが、逆に前向きにいかなきゃやってられないぜ!とミーハーな外車に買い替え、休日に家族で楽しむことを考えるようにしました。子供の成長を見守りつつ、親の務めと自分の人生も謳歌したいと思います。

これからもブログ楽しみにしています。

長文失礼しました。

富豪記者 さんのコメント...

コメントありがとうございます。

お子さんが順調にお育ちのようで何よりです!

誰かに話すことは、辛さの解消というより、話すことで自分の気持ちを整理する意味合いも強いのかもしれません。

昨年、ご自分のことばかり考えた、とのことですが、それは極々普通のことだと思います。ちっとも最低なんかじゃなく、当たり前のお気持ちだと思います。今後もそんな気分になることはあると思いますが、人間、そんなに強いわけないですよ。

ご自身を責めずに、前向きな気分になっている時のご自身をじゃんじゃん褒めてあげたほうがいいです!

どんな子供でも、子供なりの人生を歩むでしょうし、親は親で必要なサポートはしつつ、親自身の人生を謳歌することも考えたほうが、ご家庭全体にとっては良い空気が流れるのではないでしょうか。

わかったようなことを書いて恐縮ですが、その場その時の気持ちに素直に反応して暮らしていきたいですね。

極端な話、またいつか、半泣きで施設のようなところに電話したっていいじゃないですか!

投げやりな意味ではなく、無理に教科書的な正論だけに縛られる必要などないと思います。

うまく言えませんが、楽しいこと、楽しい部分を大げさに受け入れてなんとかやっていきたいですよね!