2013年1月9日水曜日

ドツボにはまる


壺を眺めてウットリする時間が増えた。一時期、やたらめったら壺の収集に精を出したが、人にあげちゃったり捨てちゃったりで、今では気に入った数点だけが手元にある。

もともと徳利の収集に凝り出したのが壺に興味を持つきっかけだった。丸味を帯びた徳利が好きで掌で転がしているだけで気持ちが落ち着く。

そもそも酒を入れる器だから、酩酊という異次元に連れて行ってくれる装置でもある。当然、愛しい存在だ。小さめの注ぎ口から中は見えない。覗いても闇だ。そこがまたいい。

中国の故事に「壺中の天」がある。壺の中に別天地があるというロマンチックな言い伝えだ。まさしく徳利の中には俗世間とは別の素晴らしい世界が隠れているのだろう。

というわけで、徳利を大きくしたようなフォルムの壺が好きになっていった。大きくなれば壺中の別天地も広いはずだという思い込みが壺にハマったきっかけだ。

冒頭の画像は、越前の古壺だ。一応、数百年前のものという触れ込みで大枚はたいて手に入れた。肩から胴にかけてのぽってりとした形が大らかで好きだ。抱きつきたくなる。たまにコッソリ抱きついたりしている。

形状からして大昔の種壺だろう。口の広い大壺の中にも好みのフォルムのものがあるのだが、あの形は骨壺だった可能性もあるため、恐ろしくて手が出ない。種壺系の形であれば、変な怨念も無いだろうから身近において楽しめる。


年の暮れにとある美術館で壺を中心とした展示会を見る機会があった。日本の古い窯場6カ所の総称である「六古窯」のものばかり集めた展示だった。わが家で偉そうに鎮座している古越前の壺が中々大したものだと確認できて嬉しかった。

骨董の壺の場合、当然、作家と呼ばれる陶芸家が作品として作り上げたわけではない。誰かに鑑賞させるという目的がないため、実に素朴で大らかに出来上がっている。この点が一番の魅力だ。名もない陶工が生活のために黙々とロクロを挽いた感じが単純明快に潔い。

実用雑器としての美。大正から昭和にかけて提唱された民芸運動の精神そのものだと思う。まさしく「用の美」だ。

現代陶芸家の壺も何度か購入して手元に置いてみたのだが、なんとなく面白味が無い。キッチリした壺は存在そのものがカタブツ女みたいで鬱陶しい。カタブツ女の関係者の方、スイマセン。。。古壺を真似た一見大らかな現代壺も長く眺めていると、その大らかさが作為的に見えてくる。どこかわざとらしく感じてしまう。

どんな美女でも「私って綺麗でしょう?どうよ、まいった?」って言われたら蹴飛ばしたくなる。さりげなくないものには醜悪なものが多い。それと同じだと思う。

もちろん、圧倒的に美しい美術工芸品はそれはそれで素晴らしい。とはいえ、アマノジャッキーが私の使命?でもある。こと壺に関しては「作家サマの作品」より「実用品」に魅力を感じる。

まあ、好みや相性で大きく変わるから私程度の鑑識眼などアテにはならないが。


この画像は、現代作家モノの大壺だが、ウマが合うというか、なんとなくシックリくるので大事にしている。備前焼の土に美濃焼の代表的な釉薬である志野釉をかけて焼いてある。その名も「備前志野」だとか。

焼物ファンであれば、その邪道ぶりに首をひねりたくなる組み合わせだろう。正直、土と釉薬がマッチしているとは思えない。両方の良さを殺し合っているようにも思える。

でも、なんとなく好きだ。強引にアレンジしちゃった「無理な感じ」が妙にケナゲというか哀れというか、いじらしい感じがして気に入っている。

褒めてるのかケナしてるのか微妙だが、アマノジャッキーである私にとっては、なんとなく手放せない壺だ。


傘立てに使われている壺は、常滑の古い壺だ。ウソかホントかこれも数百年前のものという触れ込みで買った。でも何となく怪しい感じがして、気に入らないまま傘立てに身を落としてもらった。

玄関先だし、不注意でぶつかったり、転がしてしまうのだが、不思議と割れたり欠けたりしない。妙に頑丈だ。きっと壺自身が私に対して「オレはニセモノじゃない!」と意地を見せているのだろう。そのうち、装飾用に昇格させてやろうと思っている。

壺のことばかりアーダコーダと書いてみたが、結局のところ、人生、「ドツボ」にはまらずスイスイとうまく泳いでいきたいと思う今日この頃だ。

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