2011年12月9日金曜日

親切心、無償の愛、邪念

人には常に親切でいたい。年を重ねるに連れ、そんな殊勝な考えが強くなる。世界中にそんな考えが拡がれば平和だろうと思うのだが、ことはそう簡単ではない。

親切がアダになることだって世の中にはいくらだってある。

以前読んだ昭和の文士の随筆に興味深い逸話があった。妙に私の心に刺さった話だ。

食糧難の時代、赤線に出かけていった男が一袋のジャムパンを持参した。女性の歓心を買おうというより、少しでもその場の空気を和ませようと思っていたらしい。

そして、いざその段になって、励む男の下で女性は仰向けのままおもむろにジャムパンを食べ始めた。シラけてしまった男。女性はパンをかじりながら、さっさと終わってくれと声を荒げたという。

実に切ない話だと思う。なんとも教訓に満ちた話だろう。想像するだけでグダグダになる。大袈裟か。

老若男女問わず、大なり小なり、親切したつもりが、かえって不快な思いにつながったことがあると思う。

電車で席を譲ったら、年寄り扱いするなって怒られたりするような理不尽な話の類だ。

人間なんて煩悩の塊だから、良かれと思ってする行動でも、感謝されたい、自分がいい人だと思われたい等の邪念というか、見返りを求める心が頭をもたげる。

親切心を中途半端に発揮しようとすると、相手方にもこちら側のそんな邪念がうとましく映って見えるのだろうか。

なかなか難しい問題だ。ちなみに、冒頭の随想の結論だが、人への親切はそれが2倍のイヤなことになってはね返る覚悟が必要というものだった。

切ないなあ。

小説をはじめ処世訓みたいなエッセイなんかを読んでいると、頻繁に「無償の愛」という言葉が出てくる。昔から気になっていたのだが、まったく見返りを求めない愛情って存在するのだろうか。

見返りなしに相手を愛し続けるなんて、特別卓越した宗教家とか、聖人と呼ばれるレベルの人じゃないと成り立たない気がする。

そういう次元を目指したい気持ちは誰にだってあるが、世の中、そう簡単ではない。少なくとも愚凡な一般人である私には難問だ。

親子の愛がそうだと言う人がいる。はたしてそうだろうか。男親の経験しかない私としては残念ながら、子どもへの気持ちが「無償」だとは思えない。

もちろん、子どもに対して普通に愛情は感じる。それは子どもが子どもとして父親に接している前提があるから生まれる感情のような気がする。

子どもとして親に対して適切な態度を取るから、こっちも可愛さにつながるのであって、そういう態度を期待すること自体が、一種の見返りを求めているのかもしれない。

すなわち、父親を頼り、父親に甘え、おべんちゃらだろうと気の利いた言葉を発したりする背景があるから、こちらも愛するに値する存在と認識する。

そう考えると無償とまでは言いきれない。その証拠にヨソの子どもには当然ながら愛情を感じない。

自分の腹を痛めたわけでなく、乳を吸われるわけでもない男親なんてそんなものだろう。この点は、女親と男親で温度差があると思う。

女親がわが子に向ける愛情には、確かに無償の愛を思わせる要素がある。ただ、それだって斜に構えて見れば、イメージ通りに育って欲しいとか、将来は仲良し親子として付き合いたいといった程度の見返りに似た感情は否定できないのではないか。

結局、無償の愛などというものは、自己愛ぐらいしか該当するものがないのだろうかと悶々としてしまう。

なんか、そんなことを書いていると、自分の偏屈ぶりがイヤになる。なんかひん曲がっちゃってイヤなヤツだ。病気だろうか。

しょうがないから親子の愛という崇高なテーマからは離れることにする。

男女の関係における「無償の愛」にテーマを移そう。

こっちのテーマに移ってきても、結論めいてしまうが、無償の愛なんて不可能だと思う。

いつまでも待つわ、などと、あみんの歌みたいなことを言う人がいても、本当に待ち続けている人なんて見たことがない。

残念ながら反応のないところでは愛情は持続しないと思う。

振り向いてくれなくていい、遠くから横顔を見ているだけでいい、などと若い頃のハマショーみたいなことを言う人もいる。立派な心掛けだが、そんなものが続くはずはない。エネルギーのムダだし、無償の愛というよりストーカーだ。

見返りを求めることが正しくないとは思わない。むしろ、見返りを求めることが正常な姿だと思う。そっちのほうが人間らしい気がする。

だから「無償の愛」を必要以上に尊いものとして持ち上げても仕方がない。とくに男女間において、そんな発想に縛られたら窮屈でしょうがない。

振り向いて欲しい、笑顔を向けて欲しい、優しい言葉をかけてもらいたい、触れたい、深い関係になりたい、等々。その目的を叶えるために一生懸命になる。それが人として自然な姿だ。

強いて言えば、愛情を感じあえる関係になって始めて、その先に見返りを求めない感覚がやってくれば、それはそれで素晴らしい話なんだろう。

無償と言うよりも自己犠牲という次元の話だ。愛し愛されという見返りが既に成就しているからこそ、その延長線上で成り立つ話なのかもしれない。

いくら自己犠牲の行動であっても、人間は煩悩の塊だから、心のどこかで相手から返ってくる「何か」に期待してしまうのは仕方がない。

たとえ、期待する何かが「有り難う」という言葉だけだったとしても、その言葉が返ってこないと途端に気分が悪くなったりする。

結局、堂々めぐりみたいになってしまったが、見返りをまったく求めない行動なんて現実的にはハードルが高すぎるから、せめて、相手の反応を過度に期待しない習慣をつけるしかないのだろう。

それにしても今日は箸にも棒にもひっかからない話をグダグダと書き綴ってしまった。

もっと素直に人に親切にして、もっと素直に人を好きになって、小難しいことを考えずに生きていければとつくづく思う。

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