2011年6月27日月曜日

葉巻の香り

一時期ほど狂ってはいないが、葉巻をモクモクするのが好きだ。

葉巻をくゆらせる時間はなかなか捨てがたい。昨年の増税値上げをきっかけにタバコも吸い始めてしまったため、まさに煙まみれの日々だ。

仕事とか家族とか、さまざまな厄介事もケムに巻いて逃げ出したいのだが、そうもいかない。タバコや葉巻に逃避してばかり。もうすぐ私自身が燻製になりそうな気がする。


昨年、葉巻好きだった知人が咽頭ガンで逝ってしまい、さすがに控えるようになった。それでも先天的に煙が出るものが好きなので、懲りずにプカプカしている。以前のように1日3本みたいな乱暴なことはなくなったから良しとしよう。

産地の気候特性から考えて、葉巻がウマく感じるのはやはり今の季節だ。ヒュミドールでしっかり湿度管理していても、真冬の乾燥した寒風の中では一段階も二段階も楽しみが劣る気がする。

葉巻の良さは何と言っても、くゆらせはじめた途端に自分を取り巻く空気が急激にスローテンポに変わるところだ。

こればかりは不思議だ。未体験の人にはぜひ試してもらいたい。必然的に時間にそれなりに余裕がない時にしか葉巻に火をつけられない。

いわば葉巻に火をつける行為自体が、そこから数十分~一時間ぐらいは、何にも邪魔されずにホワホワできることを意味している。

暇そうにしていても、都会で働くいっぱしの中年男であれば、やれ会議だ、来客だ、原稿の締切りだ、訴えられたの訴えてやるだの等々、何かと慌ただしい。

仕事以外にも、もっと稼いでこいとか、子供の学費を納めたのかとか、学校行事に行けとか、自分の部屋を少しは片付けろとか、なんで最近身綺麗にしているのか等々、うっとおしい騒音が洪水のように押し寄せる。

そんな喧噪を外れて、一人の時間にしっぽりと葉巻の煙を眺めていると束の間ではあるが、自分の魂が異次元にワープする。

冒頭の画像は、銀座のシガーバー・コネスールで異次元ワープしていた時のひとコマ。グラスシャンパンにチョコレートを相棒にして昼間の衣が脱げていく場面だ。

中途半端な時間のシガーバーは客もまばらで思考停止するにはもってこいだ。葉巻にどうしてもつきまとう「目立っちゃう感じ」もガラガラの店なら心配ない。他人様の眼が気にならない。

葉巻ラバーにとって「他人様の眼」はちょっと厄介。どうしても「ギャングのボス」みたいに思われる。私のように見た目がヒヨコのように可憐でも葉巻を咥えると一気に「悪い人」だと錯覚される。

わが家の軒先でときどきアウトドアチェアにふんぞり返って葉巻を吹かしていることがある。基本的には、上階のベランダが指定席なのだが、面倒な時は、玄関先でプカプカだ。道行く人からチラッっと見えてしまうようで、困ったことに近所で私を「ギャングのような人」と認識している人がいるらしい。

どうも下の子の保育園の父兄が発信源らしく、穏やかな地域住民を目指す私にとっては頭が痛い問題だ。

下の子は、ダウン症児という物珍しさと保育園のおかげで近所ではちょっとした有名人である。週末チビと二人で散歩していると、歩いている子どもやお母さんがたに結構な頻度で声をかけられる。

人嫌い?な私としては、知らない人にやたらと挨拶するハメになるので自宅近くの大きな公園にはつい背を向けたくなるほどチビのネットワークは広い。

なのに父親が「ギャングのような人」だったら、やはり問題だ。イメージ払拭のため、散歩中は咥えタバコもやめて、一生懸命温和そうな表情をこしらえて歩く日々だ。

葉巻の魅力は、一人しっぽりと魂をワープさせる点だと書いたが、何も一人きりを前提にする必要はない。

たとえば、銀座あたりでのクラブ活動中にプカプカするのも悪くはない。あの世界は大人の男性のために存在するので、必然的に煙り方面には寛大だ。

分煙、禁煙などという無粋な発想もない。パイプをくゆらす御仁もいるし、葉巻オヤジもよく見かける。珍しくない光景だから、他人様の目線も面倒じゃないし、ことさら葉巻の話題に話を振られることもない。

持参していなくても、そこそこの店ならハバナ産を数種類は用意してある。綺麗に着飾った女性をボンヤリと眺めながら、さんざん浴びせてもらうお世辞を肴にプワ~っとする一時も捨てがたい。

どうも最近は「勤勉」とか「ヘルシー」とは対極のライフスタイルにどっぷり浸かっているような気がする。

Facebookとかでバリバリとランニングに励んでいる旧友の近況を見るたび、絶対オレのほうが早く死んじゃうんだろうなとか思ってしまう。

そうはいっても、私が急に走りはじめたら突然死確実だ。

煙はしばらくやめられそうにないので、せめて少しは健康に注意しよう。

歩くぐらいしか思い浮かばない。まあいいか。

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