2011年3月23日水曜日

普通に戻る

さてさて。とにかく「普通」に戻ることを心掛けよう。先日行った大阪で感じたことはこの一点だ。

連休に絡んでいたから、心斎橋周辺は凄い人出でそれこそお祭り騒ぎ。普通の日常が普通通りに展開されていた。

大阪方面は今後、経済活動が上向くんだろうと実感。とても大事なことだ。どこかが元気を無くせば、違うどこかが元気を出してトータルでプラスにもっていくことが大切だ。


多くの人が直面してしまった「シュンとしてしまう気持ち」。これは仕方がないことだろう。今回ほど、天災の悲惨さを映像で見せつけられたことはない。一種の心理被災だ。

ヒステリー、不安、不機嫌の嵐が国を覆った。「エ~シ~」と流れ続ける公共広告機構のCMにまで文句が殺到して、その部分が無音になったことなどはその最たる例だ。

わが家のダウン症・4才(以下ダウンちゃん)は、常に流れている「エ~シ~」をテレビに向かって必ず叫ぶようになっていたのに、突如、無音になって困惑。ところが、ヤツもたいしたもので、無音状態のテレビのロゴに向かっていまだに「え~ち~」と一人CMを繰り返している。

あの大らかさは見習いたい。仕方なく私も一緒に「エ~シ~」と連呼している日々だ。

あの日以来、多くの人が、ついつい「自分には何が出来るのか」「なぜしないのか」という自問自答を悶々と繰り返した。私もそうだ。

地震当日、スムーズに家に帰り着けたのに、深夜まで街中を歩いていた帰宅困難者に何をしてあげたのか、定員5名の乗用車なのに何で一人でのんきに運転しているのか、収入に比べて義援金は妥当な金額なのか、家中にある不要な服をどうして送らないのか、家の納戸に積んである食べ物はどうして積んだままなのか?もともと買い置きしてあった大量の飲料水を誰かに分けたのか、、、、。

そんな思いがいつの間にか鬱積して、しまいには「自分不信」みたいな感覚まで出てくる。

近所付き合いを敬遠している自分の狭い心を責める。わが家の門扉の真ん前に犬の糞を放置していた馬鹿野郎を相手に警察沙汰になった顛末を責める。盛り場の客引き相手にウルセーとか言ってしまう度量の狭さを責める等々、だんだん何だか分からん状態になってしまった。

そんな時、タクシー乗場で赤ちゃんを抱っこしたまま、大きな荷物を抱え、ベビーカーの折りたたみに難儀している人を助けてみた。

助けるという言い回し自体大げさなのだが、勝手知ったるベビーカーだったので、スススイッと折りたたんでタクシーのトランクに運んであげた。

当たり前の親切なのだが、私の中で妙に納得する気持ちが生まれた。ごく自然に気持ちの発露に合わせて構えずにやることをやる。これっきゃないなあと改めて感じた。

大きく構えてアーでもないコーでもないと悶々とすることのほうが、よほど傲慢で僭越な話で、やはり普通にやっていくしか答えはない。

ちなみに、ベビーカーで困っていたママさんはとても綺麗な人だった。これが土偶とか獅子舞みたいな面相のママさんだったら、手助けしなかっただろう。そんな私だ。

でもそれが私の「普通」でもある。

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