2011年2月9日水曜日

ボクちゃん

仕事関係の知人と赤坂で痛飲した。相手の縄張り?だったのでおとなしく飲みながらアレコレと観察。

いつもはキリっとした感じで仕事の話をしている相手が、いつの間にか「甘えん坊ちゃん」になっていく様子がおかしかった。

馴染みの女性に妙に甘えはじめた彼は、それこそ「ボク、寂しいんでちゅ」ぐらいの状態に陥っている。

はたで見ていると、それこそ「痛い」感じに見えるのだが、ちょっとうらやましく感じた。

自分の飲み姿を思い起こしてみても、決してボクちゃんモードにはならない私だ。決してそういう状態にはならない。おそらく大丈夫だ。たぶん心配ない。違ってたらスイマセン。

女性に甘えたい心理って大かれ少なかれ男にはつきものだろう。それを具体的に実践できるか否かは人によって異なるが、堂々とボクちゃんになれる人はストレートに行動できる点で憧れる。

なんだかんだ言っても男は皆、女性から生まれている。当たり前のことだが、それって考えてみれば凄いことだ。

織田信長だってヒットラーだって高倉健だろうと、例外なく女性から生まれて、乳を飲まされアブアブ言っていたわけだ。

深層心理のどこかにアブアブ言いたい気持ちがあっても少しも不思議ではない。私だってチャンスがあればアブアブ言ってみたい。

格好が悪かろうが、それで精神の安定が保たれるのなら人前でボクちゃんになれる人のほうが、イジイジとガマンしている人より健康でいられるのかもしれない。

赤ちゃんプレイを売り物にする風俗のような場所では、社会的に地位の高いお客さんが多いと聞く。ほ乳瓶を咥えたり、おむつを履かされるのはゴメンだが、甘えん坊モードを求めるという部分は何となく分かる気がする。

いや、意外とほ乳瓶やおむつも楽しいのかもしれない。機会があればチャレンジしようかと一瞬マジメに妄想してしまった。やばいやばい。

同じくSMクラブのような場所でも結構なポジションの人々がM側で遊んでいるらしい。

ああいう状況でのM性も一種のアブアブモードと同じなんだろう。「支配される」、「制約される」こと自体が甘えさせてもらっている側面がある。

こう見えても私は若い頃は「おねえさまがた」に結構可愛がってもらった。恥ずかしくて甘えん坊モードになどなれず、逆に威張ったりしていたが、それが年上の人からすればファニー?に映ったのかもしれない。

若い頃、年上の知人に六本木あたりの夜の世界に頻繁に連れて行かれた。あの頃、オネエサマ達は、「客の連れである若造」というポジションの私にとても良くしてくれた。

「客の連れ」というのがミソだ。あくまで「客」ではないから気軽な相手だ。おまけに「客」でもないのに、しょっちゅう顔を見せるわけだから馴染みになる。可愛がるにはもってこいだったのだろう。

イキがっていた若造時代の私も何だかんだ言って甘えさせてもらった気がする。ダダをこねたり、ワガママ放題だったり・・。若造の特権だ。

さてさて、時はあっという間に過ぎ、オトナになって「客」になった。「客の連れ」から「客」に昇格したら逆にサッパリだ。チクショーって感じだ。

「客の連れ」だった頃のほうが楽しく艶っぽい思い出がいっぱいあるというのは納得できない話だ。

でもそれが世の中の現実だ。いとをかしだ。

気付けば夜の街に「年上のオネエサマがた」はいなくなってしまった。あっと言う間に中年になったつもりはないのだが、感覚的にはあっという間に年上のオネエサマは絶滅し、同年代も絶滅の危機に瀕している。


まあ今更年上のオネエサマが出てきても、貫禄たっぷりのオオママさんだとか、その道40年とかの名物バアサンだったりする。逆にこっちが萎縮してしまう。

若い女性に甘えるのも少し抵抗があるし、年上は「名物」になっちゃったし、どうしたもんだろう。

それにしても、よくもまあ、こんなテーマでこんなにダラダラと書けるものだ。どっか変なのだろうか。

そんなにヒマではないのに我ながら不思議だ。

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