2009年6月1日月曜日

成功体験

世の中、どんなジャンルにも言えることだが、うまくコトが運んだ記憶とかラッキーだった記憶は強烈に印象に残る。

失敗は一刻も早く忘れたいが、うまくいったことはいつまでも記憶に刻まれる。俗に言う「成功体験」という感覚だ。

この成功体験にとらわれてしまうと、一種の呪縛のようなもので、その後の進歩とか前進を妨げる。

たまたま、女性を口説くことに成功したセリフを違う女性には爆笑されたり、ある人には喜んでもらえたプレイが別な人には「痛いわよ」と怒られたり・・・。

「成功体験」の話が「性交体験」にズレてしまった。軌道修正。

失敗の裏にはたいてい成功体験が潜んでいるのだと思う。

ビジネスの世界もそうだ。二匹目、三匹目のドジョウがそうそう見つからないように、ひとつの成功が呪縛を招くことは多い。

成功体験の厄介なところは「次も成功したい」という気持ちが、「成功するはずだ」という思い込みに変わってしまうこと。ズルズルと変化や進化を拒否して前例にとらわれる。

世の中をとりまく昨今の閉塞感は、日本中がそんな感覚に陥っていることも一因だろう。

経済分野の低迷は今や挨拶代わりの状況だが、対応策を講じるにも、いにしえの成功体験が邪魔をしているように感じる。

戦後半世紀、わが国は世界の歴史から見てもまれな急激な経済成長を体験した。強烈な成功体験だ。そしてこれが今も政策が編み出される際の発想の根源になっている。

生めよ増やせよ、所得倍増、先進国入り、そしてバブル。それぞれの時代にそれなりの不況やトラブルがあっても全体的には上昇気流の中での話。しょせんは右肩上がりを前提とした流れの中での問題だった。

さてさて今の時代を俯瞰してみると、どうやら不況という単純な言葉では説明できない状況にある。いわば構造的な転換期。

知り合いの公認会計士が、これからの企業は、売上げや利益について過去の数値からひとケタ無くなってしまうぐらいの覚悟が必要と語っていた。確かにそうかも知れない。旧態依然の発想のままだと、まさに秒殺される時代だろう。

私の会社でも、慣例を打破しようと考えても、ついつい過去の延長の発想が主流になる。アダルトビデオの制作、販売に進出するとか、極端な舵取りだって真剣に検討しないといけないのかもしれない。

本来業務とか付随業務、新規業務とか何気なく線引きして扱う風潮はどこの会社でもあると思う。でも、これ自体がきっと危険な発想なのかもしれない。

ところで、人口が当然のように増加を続けていた時代は過ぎ去り、若者の数も減少中。おまけに草食系が大繁殖しているらしい。

元気なおじいちゃんおばあちゃんばかりの世の中に、去勢されたかのような若者が点在する社会に向かって確実に進んでいる。

これまで漠然と認識されていたこの国の国民性とか特色というシロモノも必然的に変化していくことになる。

個々人の人生観、職業意識だって様変わりしていくわけだが、国の政策を見るとどうにも「成功体験」が邪魔をしているように見える。

経済対策は、場当たり的なもの中心。あくまで既存の制度の小手先修正ばかり。一から生まれた制度など滅多に聞かないし、制度が完全に撤廃されたような話もない。

税制審議を見ていても結局は、前時代の発想があくまで基本。このブログでも何度も書いてきたが、金持ち優遇を極端に嫌う発想だってそうだろう。

右肩上がりの時代なら、成功者も右肩上がりに豊かになっていたわけだから、国としては執拗にそうした階層からの富の再配分を狙った。

現在のようなめまぐるしく、混とんと世相の中では、成功者から収奪することより、成功者を育成する発想が絶対必要だし、そのためには成功者、すなわち金持ちをヨイショしなけりゃ始まらない。

日本人は、勤勉性とか実行力とか根性とかを元に忠実に何かをトレースする作業が得意だ。完璧な模倣がどんどんレベルアップにつながり、しまいには模倣していた元をも上回る質のものを作ったりしてきた。

素晴らしい特色だが、その分、設計力とか構想を練る力に劣るらしい。国が将来のビジョンを描けずに迷走しているのは、そうした特性の証かもしれない。

なんかまとまりがなくなってきた。

要は昨今の経済政策は、しょせん戦後成長期の成功体験を元にした、いわゆる対症療法的な意味合いが強い。根本治療ではない。

慣習、前例が命の官僚支配が続くかぎりこのスタイルは変わらない。結局は政治の責任ということ。

古くて新しいテーマだが強力な政治の力が問われている。自民でも民主でも構わないが、問題は官僚の絵図とは違うリーダーシップを発揮できるかどうかだ。

今年は総選挙の年。旧弊支配からの脱却が実現できるかどうか、せめてそのきっかけになるかどうか。

数十年後の歴史の教科書にトピックとして記載される出来事になるぐらい意味の大きい選挙が間近に控えている。

2 件のコメント:

Kobe さんのコメント...

僕はフィリピンに会社があって、向こうから見るとよくわかるのですが、「日本」という国の価値が明らかに低下しているのを痛感します。

誰もが「日本へ行きたい。日本へ行って稼ぎたい」というのは一頃前の話であって、国際競争力が低下した今では、日本や日本企業は選択肢の1つしかないんですよね。

今や、マニラの繁華街でも、アジア系外国人をを見て「シャチョーさん!」とは行ってくることは稀になり、「アンニョンハセヨ!」になってます(笑

日本や日本企業だけが今よりはるかに高い収入を得る唯一の手段ではないし、そのくせ言葉も含めて世界標準からかけ離れた「日本独特」のものが多いし。

国として、外国からのいい人材に対していつまでも鎖国状態では、もう先細りなのは明白だと思うのですが。未だ政治的には「入れてやる」というスタンスですよね。

シンガポールなどのように「来てもらう」ことを真剣に考えないと、このコスト高の国を支えるだけの若い優秀なリソースは、どの分野でも確実に不足していくと思うんですけどね。

50年、100年とは言いませんが、10年後の日本を見据えた政策を実行できる政治をしてくれないと、明るい未来はなさそうです。

富豪記者 さんのコメント...

フィリピンや東南アジアからの視点がある意味、端的に現状のニッポンを俯瞰しているんでしょうね。。リアルなコメントありがとうございます!

マニラあたりで「シャチョーさん」と呼ばれるたびに「アイアム・フクシャチョウ」とムキになって答えてきましたが、そんな声がかからなくなったら寂しいです!