2009年4月16日木曜日

モノの見方 骨董 ベントレー

モノの見方とか審美眼ってつくづく難しい。この能力に長けた人はそれだけで偉人に思える。あふれる情報、根拠のない思い込みによって、モノを見る目が曇ってしまうことは多い。どんなジャンルにも当てはまる話だ。

ブランド品信仰が高じれば、必要のない物、使い勝手の悪いもの、ヘタをするとサイズが合わないものまで買ってしまう人がいる。情けない現象だと思う。

そういう私だって好きで集めている陶器類などは、結構ひどい物を手にしてきた。よく陥ってしまうのが、有名作家の作品。自分が好きな陶芸家の作品を見つけると闇雲に買ってしまったことがある。

人が造る作品には、当然、出来映えの善し悪しがあるし、本来その作家の作風から外れているものだってある。それなのに作家の名前だけで欲しくなるようでは、モノの見方が成熟しているとは言えない。

骨董品の世界では、「きまりごと」に騙される人が多い。特定の時代の作品には、共通する特徴がある。それをホンモノの証拠として基準にするわけだが、ニセモノを造る方だってプロだから、その基準をそっくり真似る。生半可な知識で騙される人が後を絶たないわけだ。

価値のある骨董の器でよく見かけるのが、「金継ぎ」とか「金直し」と呼ばれる修復の跡。茶碗の口周りが少し欠けている場合に欠けた部分を金や銀で補修する手法だ。これがまた、だましのテクニックとして使われる。

古めかしく器肌をカセた感じに仕上げ、わざと少し欠けを作り、あえて金継ぎを施してあると、一見、貴重な器に見えるという寸法だ。

金継ぎがしてある部分が、人間の目を狂わせる。わざわざ補修までして大事に伝わってきた逸品だと錯覚してしまうわけだ。

ブランド品のニセモノ、それもチープな作りのニセモノを東南アジア方面では頻繁に見かける。あれだって、ニセモノと分ったうえでシャレで買うならともかく、相変わらず騙される人が多いらしい。ブランドの名前が持つ魔力だ。

ジャンルはまったく異なるが、「飲み屋のインチキ生ビール」だって同じだろう。冷えたジョッキグラスに注がれただけで、疑いもなく生ビールだと信じ込む人が多いから、まがい物が出回る。

つくづく思い込みの怖さを感じる。

税金関係の新聞を作っていると、法制度の改正などを取り上げる際、時間の関係で、仕方なく“お上”の情報を単に垂れ流すだけという事態に陥りがちだ。

よくよく分析すると、まったく異なる角度からの見方が必要だったり、制度の裏に潜む問題点が見つかることもある。わが社の新聞は、そうした方面に力を入れている関係で、読者の方から“座右の一紙”にしてもらっていることが多い。有難いことです。

税務・会計の世界には、専門誌がいくつもあるが、条文の羅列や単なる解説だけの媒体が大半で、報道的観点を重視しているのはわが社しか存在しないのが現状。この決定的な違いをより周知してもらうようにしていきたい。解説誌と報道媒体は比べるまでもなく完全に違う存在だ。

話がそれたしまった。モノの見方についてだ。

私がアマノジャクを目指しているのも、モノの見方を鍛えたいからだ。アマノジャク賛美というより、アマノジャクを徹底するぐらいじゃないと、周囲の情報に流されたり、くだらない流行に振り回されたりする。自分の信念や自分の眼力を高めたいので、あえてアマノジャクでいようと考えている。

モノの見方といえば、いつも死んだ祖父を思い出す。独特の感性で、周囲の情報に流されない人だった。

バブルの頃だったか、雨後の竹の子のようにベンツが街に増殖していた時の話。だいぶ前から何代かにわたってベンツを愛用していた祖父も、さすがに飽きがきたらしく突然、「ベントレーを見にいくぞ」と言い出した。

好奇心いっぱいで同行させてもらった。いざ試乗。祖父は後部座席のチェックに余念がない。私としては、“ベントレーだ。キャア!”ぐらいのアホ感覚で眺めていた。

祖父の感想は、後部座席に座った時の膝から下の収まりが気にくわないという一点のみ。その理由だけで充分だったようだ。天下のベントレーという名前など関係なく、さっさと帰路についた。そして履き慣れた靴に戻るかのようにベンツに乗り続けた。

昭和20年代からフルサイズのアメ車を乗り継いでいたショーファー付き後部座席の達人の眼力なんだろう。すぐブランド物にほだされていた私にとっては印象的だった。

そうは言っても、いざベントレーが買えるぐらいになったら、きっと試乗もロクにしないまま発注してしまうのが私のダメなところだと思う。もっと目を鍛えないといけない。

今度眼科医の友人に相談してみよう。。。

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