2007年11月26日月曜日

ミシュラン日本版に思う

ミシュラン日本版についてさかんに議論されている。率直に言って「ミシュランの思うツボ」だろう。話題になるほど本は売れる。

味覚は千差万別。本人の好み、体調、そして気分にまで左右されることは自明の理。その店で何度食べたのかも分からない他人の評価、ましてやヨソの国の人がたまたま食べた際の評価を有難がっても仕方ない。

単なる読み物として眺めていればいい話だろう。大体、寿司屋なんてカウンターを挟んで人間と人間が向き合って過ごす場所だ。店主との相性はもちろん、店側との呼吸が合って初めて居心地と味の印象が決まる。グルメ本を見て、ランチに出かけて、お決まりのセットを食べただけでアレコレ語っても仕方ない。

アマノジャクを自認する私は、グルメガイドに載っていない自分だけの美味しい店を見つけることに喜びを感じる。このブログでも、訪れた店の固有名詞を書くことはあるが、本当に好きな店の名前は書かない。氾濫するネット情報だってそれが現実だろう。

寿司屋の話に戻ろう。最近やたらと増えてきたのが「おまかせだけの店」。メニューやお決まりセットなどはなく、出されたものを有り難くいただくスタイルだ。確かに便利だし、社用族にも有り難いだろうし、接待される側も気を遣わなくて済む。

知識のない客でも何となく困らずに過ごすことが出来る。逆に言えば、客を育てないスタイルだと思う。せっかく、プロと正面から向き合うのだから、一方的に食べ物を提供されるだけではもったいない。寿司屋のカウンターに座る意味がない。

客側も客側のスタイルをぶつけた上で相互通行ができた方が楽しい。今風に言えばインタラクティブな世界を作れないようなら、「カウンターで堪能する寿司」という文化の魅力は半減する。

もちろん、季節や産地ごとの魚の旬なんかをすべて覚えることなど素人の客に出来るわけはない。それでも馴染みの寿司屋を作って、時に恥をさらしながら、一応の常識的知識を身に付けた方が、「客としての質」も上がるというもの。

ビミョーな知識をそれなりの店でご披露して悦にいってるオヤジにはなりたくないが、そういうオヤジだって、どこかで一生懸命知識を蓄えてきたのだろうから、捨てたものではない。いわゆるKYの問題であり、出されるものに何の興味も示さない御仁より、店側にとって相手のしがいがある客だろう。

そこそこの知識があれば、出されるものの希少性が理解できたり、逆に店側の姿勢に疑問を感じることもできる。「おまかせ」だけを食べさせられていると、あくまで店の都合を食べていることになる。

20代の終わりから10年近く通った寿司屋があった。客単価は、有名繁華街ではない立地にしては高く、お客さんの年齢層も高く、いろんなことを体験して覚えた。

育った家が肉系西洋料理を好む傾向が強かったので、社会人になってからも「和」より「洋」が中心だった私だが、その店で魚の旨さや日本料理のあれこれを知ることができた。毎週、多いときは週に2回ほど訪れて店の売上げに貢献し、時には店主と旅行に出かけ、土地土地の旨いものを食べ歩いたりした。

結構な投資だったと思う。でもそのお陰で、自分なりの寿司屋で快適に過ごすスタイルが固められた気がする。

そうは言っても、値段が心配というご指摘もあろう。私も一見の店には、普段より財布に余裕を持たせて出かける。でも、まっとうな寿司屋に言って、カウンターに陣取り、自分の好みを押し通すのだから、高額なお勘定は当たり前だと思う。

ついでにいえば、そこそこのフレンチに行って、選択肢の乏しいコース料理を選ばされて、相応のワインを頼んで支払う金額を思えば、寿司屋は決して高くないとも思う。

なんといっても、好きなものを、好きな量、好きなタイミングで、目の前で待機してくれる職人に提供してもらう。このこと自体が、世界にも例のない贅沢なスタイルだろう。安いはずがないと考えた方が自然だ。

高い、高いといっても私の経験では、品性のない同伴ホステスみたいに「ウニ、トロ」ばかり連呼しなければ、一流店と言われる店だろうと目の玉が飛び出るお勘定になることは稀だ。安くはなくても請求される値段がこちらの想像と大きく狂うことはない。歌舞伎町あたりの怪しげな寿司屋の方がよっぽどわけの分からない金額をふっかけてくる。

なんかミシュランから大きく脱線してしまった。とにかく寿司屋のカウンターでしみじみすることが大好きな私としては、お寿司屋さんが表層的に評価される風潮がすごくイヤだ。

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